35.ごめん、嬉しくて
「お嬢さんとの旅が終わって、そう遠くないうちに別れが来ると思うと、離れがたくなってね」
レグルスはそう言うと、眉を下げて困ったように笑った。
ステラも彼と同じ気持ちだ。旅が終わってもまだそばにいてくれることに安堵と喜びを覚える一方、いずれ来る別れを思うと、どうしても寂しさが胸を支配する。
しかし、これ以上彼と近づくのは、できる限り避けたかった。ステラは既に、彼への恋心に蓋をしたのだ。どうせ、叶わぬ恋だから、と。
ここで彼の願いを受け入れてはならないと、ステラはあえて突き放すように、冷めた口調で言う。
「いずれ別れが来るのに、余計に虚しくならない? それに、あなたはいずれ誰かと結婚するんだから、そんな火遊びはよくないと思うわ」
「まるで自分は誰とも結婚しないような口ぶりだね?」
「話してなかったかしら。私の婚約者のイーサンはね、キャロライナ様に寝返っていたのよ」
ステラの告白にレグルスは目を見開き、言葉を失っていた。
ステラが知っているのは、イーサンがキャロライナに惚れこんでいるということ。一回目の人生で、キャロライナから聞かされたのだ。
イーサンに特別な思いを抱いていたわけではないが、伴侶に裏切られ命を落とすくらいなら結婚しない方がマシだと、ステラは本気で思っている。
「だから私は、もう誰とも結婚しないの。ああ、国に戻ったら、イーサンとの婚約を破棄しないといけないわね」
ステラは遠くを見ながら投げやりに言った。キャロライナやジェイルズ侯爵家を失脚させることに注力せねばならないのに、余計な問題が多いなと、溜息をつく。
そしてレグルスに視線を戻そうとしたとき、不意に手首を掴まれ抱き寄せられた。そのまま彼の腕の中に捕まってしまう。
レグルスの温もりが伝わってきて、ステラは慌てて身じろぎした。
「ちょ、ちょっと、レグルス」
「……ごめん。ちょっと今、顔を見られたくなくて」
「レグルス……もしかして、怒ってる?」
彼の声は平然としているようで、どこか怒気を含んでいるようにも聞こえた。それが勘違いでないのなら、一体何に怒っているのか、ステラにはわからなかった。
レグルスは「うん」と小さく頷いてから続ける。
「お嬢さんの心を傷つけた婚約者が許せなくてね。今すぐにでも殺してやりたいくらいには、怒ってるよ」
レグルスはそう言って、抱きしめる力を強めた。苦しくはなかったが、体が密着して、彼の体温をより一層感じる。
(この人が怒るのは、いつだって他人のためね)
レグルスの優しさに、ステラの胸はきゅっと締め付けられる。
レグルスの怒りを鎮めるように、ステラは彼の背をさすった。彼の言葉は冗談に聞こえず、本当にイーサンを殺してしまいそうだと思ったのだ。
「大丈夫よ、ありがとう。レグルスはいつも、私の代わりに怒ってくれるわね」
「好きな人を傷つけられたんだ。腹が立たないはずがないよ」
「……え?」
流石に聞き間違いだと思った。だが何度思い返してみても、「好きな人」という言葉以外に解釈のしようがなかった。
目を丸くして顔を上げると、レグルスと視線が交わる。彼は眉を下げて微笑んでいた。
「ステラ。気づいてたかもしれないけど、俺、ずっと前から君に惚れてるんだ」
(名前で呼ばれるのも、あの――口づけの夜以来だわ)
そんなことを思い浮かべて、現実から逃避しようとしたが、彼の瞳がそれを許してくれなかった。彼の瞳にははっきりと、相手を望む熱が帯びている。
「気づいて、なかったわ……」
彼が何度も口づけをねだってきたのは、ステラを好いているからに他ならなかった。それがわかった途端、言いようもない思いが溢れ出してくる。驚きと、喜びと、羞恥と。ぐちゃぐちゃな感情が胸に渦巻いた。
ステラは思わず「私も」と言ってしまいそうになった。エドウィンのせいで異性との触れ合いには嫌悪感を抱いていたはずなのに、なぜかレグルスにはそれを感じない。むしろ、もう一度彼の唇に触れてみたいと、そんなやましい気持ちさえ抱いている。
しかしステラは、込み上げてくる衝動をグッと堪えて、その言葉を飲み込んだ。
たとえ両想いだったとしても、この恋が成就するはずもない。彼と共に生きるなら国を捨てなければならないが、ステラはそんなことをするつもりは毛頭なかった。
ステラが黙り込んでいると、レグルスは苦笑した。
「ごめん。キスして欲しいなんて、わがままなこと言った。君を困らせたかったわけじゃないんだ。今の告白も、君とどうこうなりたくて言ったわけじゃない。ただ味方がいるって、わかって欲しかっただけ」
レグルスはそう言うと、ステラを離した。彼は気持ちを切り替えたように、いつも通りに笑っていた。それが、ステラの胸をえぐった。
「もう戻るよ。おやすみ」
身を翻そうとした彼を、ステラは思わず呼び止めていた。
「一回だけ」
「え?」
「キス。一日に一回だけなら、いいわ」
自分でも何を言ってるんだと思ったが、気づけばそんな言葉が口をついて出ていた。ここで彼を呼び止めなければ、完全に縁が切れてしまうような、そんな気がして怖かったのだ。
ステラは自分の大胆な発言に赤面し、レグルスは心底驚いたように目を丸くしている。
しばらく見つめ合うだけの沈黙が流れたが、ステラはすぐに堪えきれなくなった。
「な、何か言いなさいよ」
「ごめん。嬉しくて、固まってた」
くしゃりと笑った彼に、ステラの胸が締め付けられる。目を合わせていられず視線を逸らした時、彼の唇が自分の唇と重なった。
優しく触れたあと、すぐに離れていく。
「おやすみ、ステラ」
レグルスは嬉しそうに笑ってステラの頭を撫でると、またバルコニーの手すりを飛び越え、自分の部屋に戻って行った。
ステラはどこか惚けてしまい、しばらく夜風に当たってから部屋に戻った。そしてそのまま、寝台に潜り込む。指でそっと自分の唇に触れ、目を閉じると、緩やかな睡魔がステラの意識を攫っていく。
その夜は不思議と、悪夢を見なかった。




