第九話 雨宿りの温室
休日の昼下がり、裏庭の隅にある温室の扉を開けると、古いガラスと乾燥した土の匂いが立ち込めていた。
前の住人が残していったドーム型の温室は、鉄枠の頑丈な造りだったが、長い間使われていなかったため、ガラスには薄く土埃が積もり、床には枯れ葉が吹き溜まっていた。
「少し埃っぽいな。私がまず床を掃こう。マリーゼは無理をせず、棚の上の小物をまとめてもらえるだろうか」
そう言って袖をまくり上げたオルディスは、いつもの制服ではなく、厚手の木綿シャツに革の作業エプロンを締めていた。腕まくりした前腕には逞しい筋が浮かび、手には大きな箒が握られている。
「棚の整理が済んだら、窓も拭きますね。二人で進めれば、お茶までには終わるかしら」
私も袖留めをつけた麻のエプロンを締め、湿らせた雑巾を手にした。
庭仕事を好むと言っていた通り、オルディスの作業は手際が良かった。大きな箒で床の落ち葉を一角に集めると、鉄枠の傷みを手早く点検し、油の切れた蝶番に油を差していく。私はガラス窓の下段を丁寧に拭き清め、日当たりの良い木製の棚を雑巾で磨いた。
掃除がひと段落すると、庭の片隅に置かれていた冬越しの鉢植えの運び込みに取り掛かった。
「重い鉢は私が運ぶ。置く場所を指示してくれるか」
「はい。寒さに弱い香草の鉢を、一番奥の陽が長く当たる棚へお願いします。手前側には、土の乾き具合を確かめやすいよう、ゼラニウムの鉢を並べましょう」
「なるほど。通路を広めに取っておけば、水差しの取り回しも楽になるな」
オルディスは私の提案に頷き、重い素焼きの鉢を軽々と持ち上げて指定の位置へ据えていった。土の湿り気や葉の付き方を一つ一つ指先で確かめる彼の手つきは、普段の厳格な佇まいからは想像もつかないほど慎重で、慈しみに満ちている。
私が棚の端を空けると、言う前に次の鉢が運ばれてきた。気づけば、何度も礼を言う代わりに顔を見合わせて笑っていた。
最後の鉢を棚に収め、空になった木箱を隅に片付けたときだった。
パタパタと、温室のガラス屋根を叩く乾いた音が響き始めた。見上げると、先ほどまで晴れ渡っていた空が鈍色に翳り、細かな雨粒が透明な天幕を白く濡らしていた。
「通り雨だな。秋の天気は変わりやすい」
オルディスが天窓の留め金を締め、雨の吹き込みを防ぐ。
「少しの間、ここで雨宿りをしましょう。すぐに上がるはずです」
温室の中央には、拭き清めたばかりの頑丈な木製ベンチがあった。二人で腰を下ろすと、ガラス一枚を隔てた外の世界は雨音に包まれており、濡れずに座っていられるベンチがありがたかった。
「オルディス様、手が土で汚れていますわ」
私がポケットから持参していた清潔な手拭きの布を取り出すと、オルディスは少し躊躇いながら、両方の手のひらを上に向けて差し出した。
「すまない、借りる」
「拭いて差し上げます」
私は布の端で、彼の指の節や爪の縁についた土を、丁寧に拭い取っていった。
警務局の主席監察官としてのペンだこと、剣を握る硬い皮膚。その逞しい手を包むように指を動かしていると、オルディスは視線を私の手元に落としたまま、微かに息を整えていた。
「……あの初夏の挨拶の日を、思い出すな」
雨音の合間に、彼の低く落ち着いた声が落ちる。
「私の生家にいらしてくださった日のことですか?」
「ああ。あの日の私は、緊張のあまり身体中が強張っていた。名門の令嬢である君に、私のような無骨な実務官吏が夫として受け入れられるのか、不安でならなかったのだ。君の父君の前で口にした誓いの言葉も、酷く硬い声になってしまったと後悔していた」
あの日、父の問いにひとつずつ答えていた声を思い出した。緊張していたのは、私だけではなかったらしい。
私は布を畳み直し、彼の親指の付け根に残った汚れをそっと拭いながら、小さく笑った。
「私は、安心していたのですよ」
「本当か?」
「ええ。背筋をまっすぐに伸ばして、ごまかしのない言葉で私を守ると誓ってくださった時、とても実直で誠実な方だと安心したのです。……実は、あの日からずっと、あなたのことが好ましかったのですよ」
自分の口から初めてこぼれた告白に、耳が熱くなるのを感じた。
オルディスは驚いたように息を呑み、土汚れの取れた自分の手をゆっくりと裏返した。そして、布を持っていた私の手を、温かい手のひらでそっと包み返してきた。
「……君にそう思われていたとは、夢にも思わなかった」
「お互いに、口にしなさすぎたのですね」
「ああ。本当に、その通りだ」
オルディスは苦笑し、包み込んだ私の手にわずかに力を込めた。
拭き終えたはずなのに、彼は手を放さなかった。私も布を畳むのを諦め、空いた左手でエプロンのポケットへ押し込んだ。
やがて、ガラスの天井を叩く雨音がまばらになり、雲の切れ間から柔らかな金色の陽光が差し込んできた。濡れたガラスが光を反射し、温室の土と緑の香りが一気に立ち上る。
「上がったようだ」
オルディスが立ち上がり、私の手を引いてベンチから立たせてくれた。
棚の上には、運び込んだ草花が並んでいる。まだ空いている棚もあった。
「オルディス様、次は春に咲く球根を植えませんか。水仙や鬱金香の球根を鉢に仕込んでおけば、春先にはここが花でいっぱいになります」
私が提案すると、オルディスは温室の明るい光を見渡し、満足そうに頷いた。
「いいな。街の種苗店で、日当たりの良さに合う品種を選んでこよう。君の好きな色を中心に」
「ふふ、また休日の楽しみが増えましたね」
二人で道具をまとめ、きれいに片付いた温室の扉に鍵をかける。
母屋へ戻る小道で、オルディスがまた手を差し出した。
もう滑る石畳も、馬車の段差もない。私は何も言わず、その手を取った。




