第八話 夕暮れの居間と、書き足された余白
王都の空が薄紫から濃い藍色へと移ろう頃、玄関ホールの重い扉が開く音が屋敷に響いた。
定時の鐘が鳴り止んでから、まだ半時間も経っていない。昼間の言葉通りに戻ってきてくれた足音を聞き、私は居間の長椅子から立ち上がって出迎えた。
「おかえりなさいませ、オルディス様」
「ただいま戻った、マリーゼ」
外套を脱ぎ、ハンナに公務鞄を預けたオルディスは、襟元をわずかに緩めて居間へ入ってきた。外の冷気をわずかに纏っていたが、その表情には昼間の庁舎で見せた張り詰めた気配はなく、家に戻った安堵が滲んでいる。
私は暖炉の前の小机に、蜂蜜を少し落とした温かいカモミール茶を二人分用意した。向かい合って腰を下ろすと、オルディスは湯気の立つカップを手に取り、静かに喉を潤す。
「昼餉の礼を、改めて言わせてほしい。温かいスープのおかげで、午後の巡回も滞りなく終えられた」
「お役に立てて何よりでした。でも、お礼を言いたいのは私の方なのです」
「君が?」
オルディスが少し首を傾げる。私はカップを両手で包み、昼間に見かけた彼の姿を思い起こした。
「お昼、会議室の前を通りかかったとき、あなたが部下の方に指示を出していらっしゃるのをお見かけしました。報告を途中で遮らず、相手の言い分を最後まで聞いてから、無理のない休養を指示されていましたね」
オルディスはわずかに瞬きし、それから少し照れを隠すように卓上のカップへ目を落とした。
「監察官の仕事は、他人の過ちを糾弾することだけではないからな。過密な職務で判断力を失わせる前に、休ませるのも上長としての責任だ。見せるようなものでもなかったが」
「休ませるようにと仰ったとき、部下の方がほっとした顔をなさっていました。あなたの下で働く方は心強いでしょうね。私まで誇らしくなりました」
言葉を飾らずに伝えると、オルディスは一度深く息を吸い込んだ。
「家ではあの半分も、うまく話せていないな。君の前だと、言葉を選びすぎてしまう」
「今だって、お話ししてくださっているではありませんか」
私は膝の上に置いていた手を伸ばし、卓の端にあった彼の大きな手のそばへ、そっと指を滑らせた。
「あの厳正で頼もしい主席監察官が、夕方にはこの家に、私のところへ帰ってきてくださるのだと思うと、あなたが戻られるのを待つ時間が、とても愛おしく思えたのです」
私の指先に、彼の指が触れた。
「君が待っていると思うと、帰り道まで短く感じる。門をくぐって、明かりがついているのを見ると、ほっとするのだ」
カップの向こうで、オルディスが少し笑った。
暖炉の火を見つめ、彼はぽつりと付け加えた。
「マリーゼ。一つ、私からも望みを口にしていいだろうか」
「はい、何でしょう」
「これまで、私は君の邪魔をせぬよう、居間では少し離れた席に座ることが多かった。だがこれからは、隣へ行ってもいいだろうか。その日あったことを、もう少し近くで聞きたい」
私は長椅子の端へ寄り、隣を空けた。
「もちろんですわ。今までも、遠慮なさる必要などありませんでしたのに」
私が空けたところを手で示すと、オルディスはかすかに口元を緩め、立ち上がって私のすぐ隣へと腰を下ろし直した。
肩が触れ合いそうなほど近い距離から、彼の温もりがじんわりと伝わってくる。
私はポケットから、昼休みに彼から受け取った一枚の紙片を取り出した。私の好みが几帳面に記された、小さな便箋だ。
続いて小机の引き出しからつけペンを取り出し、インク壺の蓋を開ける。
「オルディス様、私の好みばかりが書かれているのは不公平ですわ。あなたの好みも、ここに書き足させてください」
「私の好みか?」
「ええ。あなたの妻として、私もあなたが喜ぶものを知っておきたいのです。たとえば、お茶や焼き菓子はどんなものがお好きですか?」
オルディスは紙片に目を落とし、少し真剣に考え込むように腕を組んだ。
「……茶は、君が淹れてくれるものなら何でも美味い。だが、菓子なら甘みの強いものより、焦がしカラメルや胡桃を使った、少し香ばしいものが好きだ。料理なら、香草を効かせた肉の煮込みを好む」
私は頷きながら、紙の余白につけペンの先を走らせた。ペン先が紙を擦る音がした。
『焦がしカラメルと胡桃』
『香草を効かせた肉料理』
「それから、休日はどのように過ごすのがお好きですか? 出かけること、あるいは家での過ごし方など」
「そうだな……」
オルディスは横顔を向け、少し懐かしむような穏やかな声で答えた。
「派手な催しよりも、静かな場所がいい。昔から、土を弄ったり植物を手入れしたりするような、飾り気のない時間が好きだった。だが、君が退屈しないことが前提だ」
「退屈などいたしませんわ。土や植物の匂いは、心をとても落ち着かせてくれますもの」
紙の最後の行に『植物の手入れ、静かな時間』と書き加え、私はつけペンを置いた。
二人の筆跡が、小さな便箋の上に並んだ。私の字の方が少し大きくて、最後の一行は端へ寄ってしまった。
「植物といえば、裏庭の温室を使えないでしょうか」
私が尋ねると、オルディスは記憶を探るように視線を巡らせた。
「ああ。前の家主が建てた古いガラス張りの温室だな。最近は使われていないはずだが」
「ええ。少しガラスが汚れて、鉢植えも手付かずのままですが、冬越しの草花を移すにはとても良い場所です。次の非番の日に、二人であの温室を片付けてみませんか」
オルディスは目を見張り、それからしっかりと頷いた。
「いいな。落ち葉を掃き、ガラスを拭こう。君が寒くないよう、天気の良い昼下がりに時間を取るといい」
「はい。楽しみにしていますね」
書き足したところのインクが乾くまで、紙片を机に広げておいた。
オルディスは手帳を開き、次の非番の日に「温室」と書き込んだ。私にも見えるよう、手帳を傾けてくれる。
「雨でしたら、どういたしましょう」
「その次の休みに。約束は、なくならない」
私は頷き、インクの乾いた便箋を折り畳んで、彼の手帳へ戻した。




