第七話 警務局の昼食配達
あの日以来、夜の接続扉を叩くことに躊躇いはなくなっていた。
本の一節を読んだり、翌日の予定を確かめ合ったりと、十数分ほど言葉を交わす時間が、日々の終わりに穏やかな余白を作ってくれる。
昨夜、自室の椅子を運んできたオルディスが「明日は昼休みに書類の目途がつきそうだ」と口にした。ならば私が軽食を届けましょうか、と提案すると、彼は驚きつつも「来てくれるなら、ありがたい」と頷いてくれたのだ。
秋晴れの心地よい風が吹く正午、私は王都警務局の石造りの本庁舎を訪れていた。
威厳ある黒鉄の門をくぐり、正面玄関の守衛所で名乗り出る。
「オルディス・ファルク監察官に約束をいただいております、妻のマリーゼと申します。昼餉の差し入れを持参いたしました」
守衛の兵士は一瞬背筋を伸ばし、名簿を確認すると、極めて礼儀正しく来客用の待合所へと案内してくれた。公務の場を乱さないよう、案内があるまで静かに長椅子で待つ。やがて廊下の奥から足音が近づいてきた。
「お待たせいたしました、奥方様」
現れたのはヨアヒムだった。制服の胸元を正し、品行方正な笑みを浮かべている。
「案内役を仰せつかりました。あいつは最後の確認を済ませているところです。どうぞこちらへ」
「お手数をおかけしてすみません、ヨアヒム様」
籠を手に彼の後について広い廊下を進む。高い天井に響く自分たちの足音の合間に、開け放たれた小会議室から男たちの話し声が聞こえてきた。
ふと視線を向けると、室内で書類を片手に部下と言葉を交わすオルディスの姿があった。
「――この事案の事実確認は迅速に行うが、関係者の家族への聞き取りは慎重を期せ。無用な不安を煽る必要はない。調査記録の提出は明日で良いから、担当官を先に交代させて休養を取らせるように」
低く、澱みのない指示。部下の青年の報告を遮ることなく最後まで聞き届け、公平かつ論理的に裁定を下していく。迷いのない眼差しと、部下の健康にまで配慮を行き届かせる横顔は、家で私の返事を待つときとは違っていた。
この人は、こうして日々、多くの人々の安全と生活を守っているのだ。
声をかけるのも忘れて見入ってしまった。家では背筋が伸びすぎていると可笑しくなるのに、今はその姿が頼もしい。
会議室を出たオルディスが、廊下に立つ私に気付いた。
厳格だった表情が一瞬で解け、黒い瞳がわずかに揺れる。彼は部下に短く挨拶を終えると、こちらへ大股で歩み寄ってきた。
「待たせたな、マリーゼ」
「いいえ、今案内していただいたところです」
横でヨアヒムが、口元に手を当てて小さく笑った。
「午前中、見たこともない速度で書類を片付けていた理由がよく分かりましたよ。では俺は詰め所に戻りますので、ごゆっくり」
友人はそれ以上冷やかすこともなく、軽く敬礼して立ち去っていった。
案内された主席監察官の執務室は、無駄な装飾のない整然とした部屋だった。壁一面の書架には法文集や記録簿が並び、大きな執務机の上も書類がきちんと重ねられている。
「そこの卓を使うといい」
部屋の隅にある小さな応接卓を勧められ、私は持参した柳の籠を開けた。
「少し冷え込んできましたので、根菜と鶏肉の煮込みスープを保温瓶に詰めてまいりました。それから、胡桃のパンに干し肉とチーズを挟んだものです」
「手間をかけさせたな。ありがたくいただく」
向かい合って腰を下ろすと、オルディスは陶器の深皿に注がれた湯気の立つスープを、匙で一口運んだ。
「身体が温まるな。パンも香ばしくて食べやすい」
「良かった。午後のお仕事に差し支えないよう、香草の匂いは控えめにしておきました」
「君の気遣いは、いつも行き届いている」
オルディスはそう言ってスープを飲み進め、サンドイッチを綺麗に平らげていった。美味そうに、しかし品良く咀嚼する仕草を見つめているだけで、持ってきた甲斐があったと感じる。
食事がひと段落したとき、オルディスは内ポケットから小さな黒革の手帳を取り出した。公務の記録帳ではなく、私用の薄い手帳だった。
「マリーゼ。これを見てほしい」
彼が挟んであった一枚の紙片を抜き取り、卓の上で私の方へ滑らせてきた。
受け取って視線を落とすと、几帳面な筆跡で、いくつかの単語が並んでいた。
『林檎茶、シナモン多め』
『胡桃と蜂蜜の焼き菓子』
『柑橘類の酸味は控えめを好む』
『寝室の灯りは一段落とす』
私の名前こそ書かれていなかったが、それが何を意味しているかは一目でわかった。
「これは?」
「君がこれまでの日常の中で、何気なく口にしていた好みだ。……私は言葉を交わすのが下手だからな。君が教えてくれた大事なことを、頭の中だけで取りこぼしたくなかったのだ」
オルディスはカップの縁に視線を落とし、少し決まり悪そうに呟いた。
酸っぱいものが少し苦手だと話したのは、いつだっただろう。自分では忘れていたようなことまで、彼は書き留めていた。
「とても嬉しいです。私の言葉を、そんなに大切にしてくださっていたのですね。少しの間、お借りしてもよろしいですか。私も、あなたの好きなものを書き足したいのです」
「ああ。余白なら、まだある」
許しをもらって紙片をしまうと、オルディスは照れたようにカップを持ち上げた。
けれど茶には口をつけず、彼はカップを眺めたまま低く言葉を零した。
「だが、こうして君が職場に来てくれると、少し調子が狂うな」
その言葉に、私はわずかに身を引いた。
「……ご迷惑でしたでしょうか。お仕事のお邪魔になってしまったなら――」
「違う、そうではない」
オルディスは慌てて否定し、顔を上げた。その眼差しには、隠しきれない熱と戸惑いが滲んでいた。
「君に見つめられていると、監察官としての引き締めた顔を保つのが酷く難しくなるのだ。……午後まで引き止めたくなるから、困っている」
帰ってほしいのかと思ったら、反対だった。籠へ伸ばしかけていた手を引っ込めた。
口元が緩むのを抑えられなかった。
「それでは、あと少しだけ。お昼休みの終わりまでは、いてもよろしいでしょう?」
「ああ。ぜひ、そうしてくれ」
食後の茶を飲みながら、屋敷の庭の話をした。やがて柱時計が、昼休みの終わりを告げた。
私は籠を片付け、立ち上がる。
「それでは、私はこれで失礼いたします。お仕事、頑張ってくださいね」
「ああ。今日は定時に出られる見込みだ。帰ったら、続きを聞かせてくれ」
「はい。楽しみにお待ちしております」
廊下へ出て振り返ると、オルディスはまだ戸口に立っていた。小さく手を振れば、仕事に戻りかけていた彼の足が止まる。
もう一度、会釈をして扉を閉めた。これ以上は、本当に引き止めたくなってしまう。私の方が。




