第六話 夜半の接続扉
柱時計が夜の十一時を告げた後も、私の寝室のランプには小さな灯りが残っていた。
先日オルディスから贈られた深紅のショールを羽織っているおかげで、肩から背中にかけては十分すぎるほど温かい。膝掛けを軽く広げ、私は寝椅子に体を預けて一冊の古い書物をめくっていた。王都の風変わりな建築や造園の失敗談を集めた、気晴らしの随筆集だった。
ページを繰る手が止まったのは、ある節を読んだときだった。
『――南方の名門貴族の当主は、愛妻が薔薇を好むと知るや、夜を徹して庭に新しい導水路を掘らせた。しかし傾斜の計算を誤り、翌朝妻が目覚めたとき、池の水はすべて温室の中に流れ込み、丹精した薔薇ではなく丸々と太った鯉が並んで跳ねていたという』
大真面目に妻を喜ばせようとして大失敗した男の記録に、思わず声を出して笑ってしまった。
活字から顔を上げたとき、ふと壁の白塗りの木製扉が目に入る。
隣のオルディスの寝室へ通じる接続扉だ。結婚してから一度も開けられたことのないその扉の隙間から、微かに金色の光が漏れていた。耳を澄ませば、衣擦れの音と、書類を一枚めくる乾いた音が小さく響いてくる。
彼もまだ起きている。
(このおかしな話を、オルディス様に話したらどんな顔をなさるかしら)
明日の朝食まで待つこともできた。けれど、今読んだこの可笑しさと楽しさを、今すぐにあの人と分け合いたいという衝動が、胸の内で小さく跳ねた。
私は寝椅子から立ち上がり、本を片手に抱えて接続扉の前へ立った。
躊躇ったのは一瞬だけだった。右手を持ち上げ、指の背でコン、コン、と二度、木肌を叩く。
隣室の紙の音が止まった。
それから数秒の沈黙の後、急ぎ足の気配が近づいてきて、扉のノブが勢いよく回された。
ギイと音を立てて開いた扉の向こうに現れたオルディスは、眉根をこれ以上ないほど寄せていた。普段の整った黒髪がわずかに乱れ、部屋着の上着の胸元を寛げた姿のまま、その片腕には分厚い羊毛の毛布が二枚も抱え込まれていた。
「マリーゼ、どうした。体調が悪いのか? それとも部屋が冷え込むのか」
息を切らし、真剣そのものの目で私の上から下までを素早く点検する夫を見て、私は呆気にとられ、それから空いた手で口元を押さえた。
「……ふふっ、あはは」
「マリーゼ?」
「すみません、オルディス様。でも、その毛布の山は」
「寒くて眠れないのかと。今夜は風が強い。ショールだけでは足りなかったなら、これを――」
「寒くはありませんわ。ほら、見てください」
私は深紅のショールの端を持ち上げ、夫に見せた。
「あなたが贈ってくださったこれのおかげで、指先までぽかぽかとしております」
オルディスは毛布の山を抱えたまま、まじまじと私の手元を見つめ、それからようやく自分が過剰な警戒態勢をとっていたことに気づいたようだった。肩からすっと力が抜け、困惑の混ざった息を吐き出す。
「……では、何か緊急の用件だったのか」
「緊急ではありません。ただ、この本を読んでおりましたら、とても可笑しな一節があって、あなたと一緒に笑いたくなったのです」
私が抱えていた革表紙の本を掲げて見せると、オルディスは大きく瞬きをした。
「本を?」
「ええ。夜更けに叩いてご迷惑でしたでしょうか。お休みになるところでしたら、明朝にいたしますけれど」
引き下がろうと一歩後ろへ退くと、オルディスは慌てて「待ってくれ」と片手を伸ばしかけた。
「迷惑なものか。まだ書類の点検をしていたところで、眠気など微塵もなかった。……一人で机に向かっているより、君と話せる方がずっと嬉しい」
言ってから、彼は一瞬黙った。私も黙ってしまった。先に動いたのは彼の方で、毛布を自室の長椅子へ置くと、革張りの椅子を一脚運んできた。
「いつもの場所へ掛けるといい。私もそばで読む」
私の寝椅子の向かい、読書用ランプの丸い光の輪の中に、彼の椅子が並べられた。
部屋着のオルディスが腰を下ろすと、いつもの読書の場所が急に小さく感じられる。白檀の香りと、彼の身に纏う夜の静けさが、私の部屋の空気に溶け込んでいく。
「それで、どんな話だったのだ」
促され、私は本を開いて彼に差し出した。
「ここです。薔薇のために導水路を掘った貴族のお話です。できれば、オルディス様に声に出して読んでいただきたいのですけれど」
「私がか?」
「ええ。あなたの声はとても低くて落ち着いていらっしゃいますから、聞いてみたいのです」
オルディスは本を受け取ると、少し所在なげに喉を鳴らした。それから姿勢を正し、先ほどの頁に視線を落とした。
「『南方の名門貴族の当主は、愛妻が薔薇を好むと知るや、夜を徹して庭に新しい導水路を掘らせた……』」
警務局の主席監察官の、低い声が、夜の寝室に響く。
法廷で罪状を読み上げるような厳格な声音のまま、「丸々と太った鯉が並んで跳ねていた」というくだりに差し掛かったとき、私は堪えきれずに吹き出してしまった。
「ふふ、そのお声だと、鯉まで叱られているみたいです」
「書かれている通りに読んだだけだ」
オルディスは眉を下げ、しかしその瞳には楽しげな光が宿っていた。本を膝の上に下ろし、彼は薄く笑った。
「だが、この男の気持ちは分からなくもない」
「えっ、鯉を跳ねさせた当主の気持ちがですか?」
「妻を喜ばせたい一心で、周囲が見えなくなる愚かさのことだ。私も似たようなものだからな。先ほどのように、毛布を抱えて押し入るあたりが」
自嘲するような夫の言葉に、私は首を横に振った。
「毛布は要りませんでしたけれど、来てくださって嬉しいです。それに、やはりあなたのお声は素敵ですね。もう一節、お願いしてもよろしいですか」
率直に褒めると、オルディスは本を持つ指先に力を込め、小さく息を吸い込んだ。
「……君は、そうやって真っ向から私を褒めるのだな」
「妻ですから。良いところは何度でもお伝えしたいのです」
「……敵わないな」
オルディスはもう一節だけ読んでから、本をそっと卓上に戻した。
それから伸びてきた彼の大きな手が、私の膝の上に重ねられていた右手を、ふわりと包み込んだ。
私の手の上で、彼の指がためらうように止まった。こちらから指を曲げると、ようやく握り返してくれる。
「マリーゼ」
「はい」
「明日も、夜に少し時間を作ろう。続きをまた一緒に読まないか」
「ええ、ぜひ。明日は私がお茶を用意してお待ちしております」
約束を交わすと、彼は満足そうに頷き、名残惜しそうに手を離して立ち上がった。
運んできた椅子を持ち上げ、自室へと戻っていく。
扉の前に立ち、彼が振り返った。
「遅くまで付き合わせてすまなかった。扉を叩いてくれて、嬉しかった」
「私も、お話しできて楽しかったです。おやすみなさい、オルディス様」
「おやすみ、マリーゼ。良い夢を」
扉が静かに閉じられ、カチリとラッチがはまる音がした。
私は卓上の本を手に取り、先ほどまで彼が読んでいた頁へ、絹の細い栞を挟み込んだ。明日の夜の約束を胸の内でそっとなぞりながら、ランプの火を吹き消してベッドへと潜り込んだ。




