第五話 寒露の夜のショール
十月も半ばを過ぎると、夜の冷え込みは日増しに厳しさを増していった。
庭の楓が赤く染まり始め、王都を吹き抜ける風には、もう冬の匂いが混じっている。
夕食と湯浴みを済ませた私は、自分の寝室で長椅子に腰掛け、膝に毛布を掛けて読書をしていた。壁の片隅には、隣の部屋――オルディスの寝室へと通じる白塗りの木製扉がある。鍵はかかっていないが、互いの私室を分ける境界として、結婚してから開けられたことは一度もなかった。
静かな夜の空気を破るように、廊下側の扉が控えめにノックされた。
「奥様、夜分に失礼いたします」
入ってきたのはハンナだった。その手には、薄い木箱が恭しく抱えられている。
「旦那様宛てに北方の工房から特注の荷が届いたのですが、奥様へ直接お渡しするようにと言付かってまいりました」
「私に? オルディス様のお荷物ではありませんの?」
「はい。旦那様が婚礼の前、初夏の頃に注文なさっていた品だそうでございます。職人の手が遅れ、ようやく今夜届いたのだとか」
「初夏に……」
まだ結婚が決まって間もない頃だ。不思議に思いながら木箱の蓋を開けると、中には丁寧に薄紙で包まれた布が収められていた。
包みをほどいて指を触れた瞬間、指先が吸い込まれるような柔らかさに息を呑んだ。
北方の高地に棲む山羊の極細の毛を、手紡ぎで織り上げた大判のショールだった。色は葡萄酒を思わせる深い赤だ。先日の買い出しで手に入れた外出用の鳩羽色の外套とはまったく異なり、こちらは室内で羽織るのに適した、軽く、ふっくらとした生地だった。
「まあ、なんて滑らかな織物でしょう」
「北の職人が時間をかけて手織りするのだそうです。旦那様がどうしてこの色や形をお選びになったのか、その理由までは存じ上げませんが、旦那様は先ほどから居間の暖炉を点検しておられますよ」
ハンナは悪戯っぽく目を細めて一礼すると、足音を忍ばせて部屋を出て行った。
手のひらを布で挟むと、ひやりとしていた指先が少しずつ温まった。
婚礼の前に、私のためにこれを誂えてくれていたというのか。
あの頃の私たちは、まだ顔を合わせたことすら数えるほどしかなかったはずだ。なぜこれを選び、どんな思いで納品を待っていたのか。
人づてではなく、直接その声で確かめたかった。私はショールを丁寧に薄紙で包み直して木箱に収めると、それを両腕に抱えて廊下へと足を踏み出した。
一階の居間へ降りると、暖炉の中で赤々と薪が爆ぜていた。
オルディスは火かき棒を手にしたまま、長椅子の前に立っていた。部屋着の上着を羽織っているが、背筋はやはりまっすぐに伸びている。
私が木箱を抱えて現れたのを見ると、彼は火かき棒を炉端の金具へ戻し、姿勢を正した。
「マリーゼ。まだ起きていたのか」
「ええ。ハンナから、いま届いた木箱を受け取りました」
私が木箱の蓋を開けて中の深紅の布地を見せると、オルディスは視線をわずかに揺らし、それから少し決まり悪そうに眉根を寄せた。
「受け取ってくれたか。本当は婚礼の日に手渡すつもりで手配したものだった。北の工房で糸の染め直しがあったらしく、納期が大幅に遅れてしまってな。寒くなる前に渡したかったのだが、すっかり秋が深まってしまった」
「初夏から頼んでくださっていたのですね。驚きました。とても軽いのに、手を包むだけで温まります」
「山岳地の山羊の毛だ。軽くて暖かいと聞いた。室内で羽織るのにも、肩が凝らないだろうと」
「どうして、この品を私に?」
尋ねると、オルディスは一歩こちらへ歩み寄り、ショールの縁に施された細やかな房飾りに目を落とした。
「……婚姻が決まって、君の生家へ挨拶に伺った日を覚えているだろうか」
「ええ、もちろん覚えています」
初対面の日のことだ。客間で堅苦しく挨拶を交わした、あの張り詰めた午後を忘れるはずもない。
「あの日は初夏だというのに、前日の雨のせいで酷く肌寒い午後だった。君は父君の隣で大人しく座っていたが、時折、冷えた指先をドレスの長い袖の中に隠すようにしていた」
思いがけない指摘に、私は思わず自分の両手を見つめた。
言われてみれば、私は昔から寒さに弱く、緊張すると指先が冷たくなる癖があった。自分でも気づかなかった仕草を、彼は一度会ったきりのあの場で見ていたというのか。
「この屋敷は古い造りだからな。冬になると廊下や居間に冷気が溜まる。君が寒さに凍えないよう、羽織るものがあればと思っていたのだ」
「オルディス様」
「色は、君の黒髪によく映えると思って選んだ。気に入ってもらえたならいいのだが」
彼はそう言って木箱からショールを持ち上げた。
空いた箱を小机へ置いた私の肩へ、彼が大判の布を広げて掛けようとする。だが布が触れる直前、大きな手がためらうように止まった。妻の体に触れてよいものか、一瞬の遠慮が宿っていた。
私はその躊躇いを解くように、自分から一歩、彼の方へ歩み寄った。
「掛けてくださいますか」
オルディスは小さく息を呑み、それから慎重に、壊れ物を包むような手つきで、私の肩へ深紅のショールを滑り込ませた。
首元から入っていた冷気が遮られた。両肩をすっぽり包まれて、思わず息をつく。
首元で布を合わせる彼の指が、私の顎の下をかすめた。ショールの暖かさばかり褒めたけれど、頬が熱いのは別の理由だった。
「どうだろうか」
「とても、暖かいです。包み込まれているようで、寒さなど忘れてしまいそう」
私が胸元でショールの端を押さえながら見上げると、オルディスはほっとしたように肩の力を抜いた。
「良かった。遅くなったが、贈ることができて肩の荷が下りた」
満足そうに頷き、自分の役目は終わったとばかりに一歩下がろうとする夫を見て、私は思わずその袖口を指先でつまんでいた。
「オルディス様」
「何かな」
「少し、ここに座ってお話ししませんか。私の黒髪に似合うと、いつお考えになったのかも聞きたいです」
オルディスは瞬きをし、それから視線を暖炉の炎へ、再び私の顔へと巡らせた。
「君の体が冷えないなら、私は構わない」
「冷えるはずがありませんわ。こんなに上等なものをいただいたのですから」
二人で長椅子へ腰を下ろすと、オルディスは炉端に置いてあった鉄瓶から、白湯を二つの陶器のカップに注ぎ分けてくれた。
飾り気のない白湯から立ち上る湯気が、二人の間の空気を柔らかく湿らせる。
並んで座ると、肩が触れ合うほどではないが、互いの体温が感じられる距離だった。ショールの暖かさに包まれながら、私は爆ぜる薪の火を眺めた。
この色を選び、工房へ手紙を送り、届くのを待っていた夫を思い描いた。私がよそよそしいと感じていた間も、この人は冬の私を案じていたのだ。
「マリーゼ」
静寂の中、オルディスがカップを両手で持ったまま、ぽつりと口を開いた。
「はい」
「その色は……やはり、君によく似合っている」
炎の明かりに照らされた彼の横顔はどこまでも実直で、照れ隠しの咳払いすら忘れたように、ただ静かに私の肩先を見つめていた。
「ありがとうございます。大切にいたしますね」
深紅の布を撫でながら、私は少しだけ彼の方へ座り直した。
ショールの端が彼の膝にかかる。オルディスはそれを払いもせず、私のカップに白湯を足してくれた。




