第四話 新しい外套と測れない距離
数日前の夕食時、「秋物の外套を一緒に見立てていただけませんか」と切り出したとき、オルディスは驚いたように瞬きをした。
普段なら非番の日でも書類整理に充てることの多い人だ。断られるかとも思ったが、彼は懐から私用の革手帳を取り出し、数秒ほど予定を眺めた後、「土曜の午後なら時間が取れる」と手短に答えてくれた。
そうして迎えた週末の午後、私たちは王都の中央通りにある落ち着いた仕立て屋兼既製服店を訪れていた。
隣を歩くオルディスは、見慣れた濃紺の制服ではなく、チャコールグレーの上着に濃褐色のズボンという私服姿だった。背が高く肩幅が広いため、無地の簡素な服でも品格が滲み出ている。街行く人が時折振り返るのを視界の端に捉えながら、私は少しだけ誇らしいような、落ち着かないような心地で店内の絨毯を踏んだ。
「奥様、今年の秋物は軽さと防寒性を兼ねた上質なウール地が多く揃っておりますよ」
店主に勧められ、私は幾つかの婦人用外套を試着することになった。
一着目は、明るい蜂蜜色の外套だった。裾に向かって優美に広がる仕立てで、胸元には細やかな刺繍が施されている。鏡の前で袖を通してみる。
「華やかで素敵ですけれど、袖口の折り返しが少し大きくて、籠を持ったり手紙を書いたりするときに擦れてしまいそうですね」
見た目の美しさも大事だが、私は日々の暮らしの中で気兼ねなく腕を動かせる実用性を重視したかった。
鏡越しに視線を送ると、長椅子に座って待っていたオルディスが、立ち上がって私のそばへ歩み寄ってきた。彼は一歩引いた位置で腕を組み、真剣な眼差しで外套を観察する。
「仕立ては悪くないが、マリーゼの言う通り、手元に生地が余りすぎているな。君は出先でも手帳を開くことがあるだろう。袖が邪魔になる」
「よくご存知ですね」
「見ているからな」
淡々とした返答だったが、以前のような儀礼的な硬さはない。
店主が慌てて別の品を運んできた。
「では、こちらはいかがでしょう。深い鳩羽色のウールで、手首が自然に絞られております。裏地には滑らかな絹を張っておりますので、脱ぎ着の際にも引っかかりません」
袖を通してみると、驚くほど軽かった。肩の当たりが柔らかく、腕を前後に振っても背中が突っ張らない。鳩羽色の落ち着いた色合いも、手持ちの衣服と合わせやすそうだった。
「いかがでしょう、オルディス様」
私が振り返ると、オルディスは顎に指を添え、首元から裾の線へと視線を走らせた。一瞬、言葉を探すように間が空く。
「……とても良い」
短くそう言ってから、彼は店主の存在を気にしたのか、わずかに咳払いを挟んだ。
「その襟の立ち上がりが良いな。君の髪をまとめたときの襟足の線によく合っている。それに、その鳩羽色は、君の瞳の色を綺麗に見せる」
店先で夫から具体的な好みを口にされるとは思っておらず、今度は私の方が言葉に詰まった。
けれど、ただ照れて立ち尽くすのはやめた。胸元をそっと撫で、店主に向き直る。
「とても気に入りました。私、これにします」
「ありがとうございます! すぐにお包みいたしますね」
オルディスが店主に会釈し、手際よく革の財布から代金を取り出して支払いを済ませた。
自分の外套に着替えてからも、さっきの言葉が耳に残っていた。瞳が綺麗に見えるなどと言われて、何でもない顔で店を出られるはずがない。
店主から大きな紙包みを受け取って店の外へ出ると、通りには冷たい風が吹き抜けていた。
空はいつの間にか灰色の雲に覆われ、舗装された石畳の上に、ぽつり、ぽつりと黒い染みが広がり始めている。初秋の変わりやすい天気が、不意の小雨を降らせてきたようだった。
「降ってきたな」
オルディスは立ち止まり、持参していた一本の黒い蝙蝠傘を開いた。ばさりと骨が広がり、しっかりとした布地が雨粒を弾く音がする。
「傘が一本しかなくてすまない。朝の空模様を見て、降らないと踏んでいたのだが」
「いいえ、持ってきてくださっただけで十分ですわ」
「広場の辻馬車乗り場まで少し歩く。濡れるといけない、こちらへ」
オルディスは油紙でくるまれた外套の包みを右脇に抱え、左手で傘の柄を握ると、私を自分の左側へと招き入れた。
差し出された傘の下へ足を踏み入れると、雨の気配が一瞬で遮られ、代わりに夫の上着のウールの匂いと、微かな白檀の香りが満ちる。
並んで歩き出すと、すぐに傘の天幕が大きく左へ傾いていることに気付いた。オルディスは傘のほとんどを私の上に差し掛けており、荷物を抱えた彼の右肩には、容赦なく冷たい雨粒が降り注いでいた。
「オルディス様、傘が偏っています。あなたの右肩が濡れてしまいますわ」
「私は構わない。君を濡らすわけにはいかないだろう」
「私も、あなたに濡れてほしくありません」
相変わらず誰かを庇おうとするとき、この人は自分の体を勘定から外してしまう。
私は歩調を合わせながら、自分の右手を伸ばした。
傘の柄を握っている彼の左手のすぐ下へ、自分の指を添える。そのまま力を込め、左へ傾いていた柄を、ぐっと二人の真ん中へと押し戻した。
傘が中央へ戻ったことで、二人の距離は必然的に縮まる。私はそのまま躊躇わず、彼の左腕へ自分の右肩をぴたりと寄せた。
「マリーゼ?」
「こうして真ん中に差して並べば、二人とも濡れずに済みます」
見上げると、オルディスは一瞬驚いたように瞬きをし、それから傘の柄に添えられた私の指先を見つめた。拒む気配はなく、握る手に余計な力を入れないよう配慮しながら、小さく息を吸い込む。
「そうだな。その通りだ」
オルディスは歩幅をわずかに狭め、再び前を向いて歩き出した。
普段の彼の足取りは広く、速い。だが今、隣から響く靴音は、私の歩調と完全に重なり合っていた。
足早に行き交う人を避けるときも、彼は私を置いていかなかった。
「歩きにくくはありませんか」
私が尋ねると、オルディスは視線をまっすぐ前に向けたまま答えた。
「いや。……悪くない」
少し間を置いて、彼は低く付け足した。
「こうして歩くのも、良いものだな」
「では、晴れた日にも付き合ってくださいませ」
私が笑うと、オルディスも口元をわずかに緩め、傘の柄を握り直した。私の添えた指の上に、彼の大きな親指の端がそっと触れる。
辻馬車の待合所が見えてくるまで、傘を打つ雨音の合間に、二つの揃った靴音だけが静かに続いていた。
「馬車が空いているな。急ごう」
「はい」
オルディスは乗り場の屋根の下へ私を先に滑り込ませると、手早く傘を畳んで雫を払った。包みと畳んだ傘を御者に預けると、馬車の扉を開けてステップの前に立った。
「足元が滑る。手を」
差し出された掌を借りて、馬車へ乗り込む。彼が隣に座っても、私はその手を放さずにいた。
「もう、滑らないぞ」
「ええ。存じております」
オルディスは何か言いかけたが、結局、濡れていない方の肩を私へ寄せてくれた。




