第三話 同期生からの被害届
午後の日差しが傾き始めた頃、ファルク邸の門前で馬車が止まり、ほどなく呼び鈴が鳴った。
居間で刺繍の手を止めた私へ、ハンナが控えめに声をかける。
「奥様。警務局のヨアヒム様がお見えになりました。旦那様が書斎の机に置き忘れた、明日の区画巡回に使う鑑札を取りに寄られたとのことです」
「明日の分ですね。すぐにお通しして。お茶の支度もお願いできるかしら」
身支度を整えて応接間に向かうと、窓辺に飾られた陶器の小壺を眺めていた青年が振り返った。
オルディスと同じ濃紺の制服を身につけているが、肩の力を抜いた佇まいには人懐っこい気安さがある。オルディスの士官学校時代からの同期、ヨアヒム・リート監察官だった。
「突然申し訳ありません、奥方様。明日の巡回の準備中に、あいつが鑑札を家へ置いてきたと言い出しましてね。俺は近くでの用件が済んだところだったので、帰りに寄ると申し出たんです」
「書斎の机ですね、ハンナに探してもらいましょう。お時間があれば、お茶を一杯いかがですか」
「ありがとうございます。それくらいなら、喜んで」
卓上に運ばれたミント茶のカップと、一口大の焼き菓子を目にして、ヨアヒムは礼儀正しく頭を下げた。
「ありがたいです。午前の立ち会いで喉が乾いておりました」
長椅子に腰を下ろした彼は、熱い茶を器用に一口啜ると、ふうと息を吐いた。それから手にしたカップを傾け、探るような視線をこちらへ向けてくる。
「ところで奥方様。昨夜、俺からの不躾な手紙が届いたと思うのですが」
「ええ、しっかりと拝読いたしました」
「あいつ、何か言ってきましたか? 今朝は俺を見ても怒るどころか、妙に機嫌が良くて。かえって気になりまして」
「いいえ。昨夜も、今朝も穏やかでしたよ」
私は向かいの席に腰を下ろし、今朝の食卓を思い返した。
「今朝は、私の淹れたお茶を美味しいと言ってくださいました。いつもより蜂蜜を多くしたことにも気づいてくださいました。ヨアヒム様のお手紙のおかげですわ」
「……へえ」
ヨアヒムは目を丸くし、それから心底おかしそうに口元を緩めた。
「あの頑固者が、奥方様の前で自発的に味の感想を口にしたんですか。手紙を書いた甲斐がありましたよ。あいつのあの熱弁、あの林檎茶の話だけじゃありませんでしたから」
「他にも何か仰っていたのですか?」
「ええ。実を言うと、手紙を書こうと決めたきっかけは先週の出来事だったんです。雨の降る夕暮れ時、局の若い書記生が急ぎの書類をこちらの屋敷に届けに伺ったのを覚えておいでですか」
言われて、私は記憶を手繰り寄せた。
「ええ、覚えています。激しい雨でしたから、外套をぐっしょりと濡らして、とても緊張した様子でおいででした」
「あいつ、道中で突風に煽られて傘を壊し、ずぶ濡れのまま屋敷の敷居を跨いだそうです。監察官の自宅に急ぎの公文書を届ける重圧で、玄関先で真っ青になって立ち尽くしていたとか」
「まあ、そんなに強張っていらしたのですね」
「ええ。ですが、出迎えられた奥方様が、彼の泥で汚れた外套を見て、まず乾いた布を手渡された。封書を旦那様へ取り次いでから、玄関の敷物を汚すまいと立ち竦む青年に気付いて、床の絨毯をそっとずらし、腰掛けやすい木の椅子を勧められたそうですね」
ヨアヒムはカップを置いた。
「熱すぎない白湯まで持たせてくれたと、局に戻った書記生が感激して話しておりました。『濡れた服で上がっていいものか迷っていたら、奥様が座る場所を作ってくださった』とね。で、問題はその後のオルディスです」
「オルディス様が?」
「書記生によると、オルディスの方はいつもの顔で書類を受け取り、『ご苦労だった』と告げただけだったそうです。ですが翌日の昼休み、詰め所で俺と二人きりになった途端、何と言ったと思います?」
ヨアヒムは背筋をぴんと伸ばし、急に低く引き締まった声を作って見せた。オルディスの真似だと一目でわかる。
「『ヨアヒム、昨日うちへ来た書記生から話を聞いたか。あの雨の中、あの子は封書だけは濡らすまいと守ってきた。妻は真っ先にそれを労ったのだ。濡れた外套を恥じる青年に気付いて敷物をずらすなど、あれは私には思いつかない。よく気がつく人だ』――とね」
息を吸う間もなく真顔で語られた友人の口調に、私は思わず目を見張った。
「あいつ、お茶を飲む手も止めて、奥方様の気配りの的確さと心の広さについて語り続けたんですよ。『妻のあのような美徳に泥を塗らぬよう、私もより職務に精励せねばならん』と、なぜか自分で自分の背筋を正して書類に向き直っていきました。聞かされる俺の気苦労もお察しください」
ヨアヒムは肩をすくめたが、その瞳には悪友への確かな親愛が滲んでいた。
膝の上で、私の指先が静かに重なる。
あの雨の日の夕方、夫は階下へ降りてきて書類を受け取り、淡々と用件を済ませただけだった。私はただ、雨の中で震えている若い使番が気の毒で、自分が屋敷を預かる身として当たり前のことをしたつもりだったのだ。
敷物をずらしたところまで、あの人は見ていたのだ。
(どうして、私の前では何も仰らないのかしら)
呆れよりも先に、胸の奥から温かいものがこみ上げてくる。
昨夜ようやく少し話してくれたけれど、まだ聞かせてもらっていないことが山ほどありそうだった。
ハンナが戻ってきて、銀の盆に載せた小さな革袋を差し出した。
「ヨアヒム様。書斎の机の引き出しに、鑑札がございました」
「ああ、助かりました。ありがとうございます」
ヨアヒムは立ち上がり、革袋を制服のポケットへ滑り込ませた。最後の一口でミント茶を飲み干すと、帽子を手にとる。
「突然お邪魔いたしました、奥方様。美味いお茶をごちそうさまでした」
「いいえ。公務の合間にお立ち寄りくださって、感謝いたします」
玄関で見送る際、ヨアヒムは足を止め、真面目な面持ちで振り返った。
「あいつに、俺から聞いたとお話しになるときは、どうかお手柔らかに。今度こそ睨まれそうです」
「それは、あの方がどれだけ自分からお話しくださるかによりますわね」
ヨアヒムは困ったように笑い、帽子を被った。
走り去っていく馬車を見送りながら、私は秋の澄んだ空を見上げた。
木々を揺らす風は冷たいけれど、午後の日差しは柔らかく石畳を照らしている。
夕方の帰宅まで、まだ時間がある。
こんなにも私のことを見つめてくれている夫の顔が、今すぐにでも見たかった。けれど、ただ待っているだけでは足りない。
(今度の週末、お出かけに誘ってみましょう)
家の中や、誰かの目がある公務の場ではなく、二人きりで街を歩きたい。季節の変わり目だ、新しい外套や日用品を見るという口実ならいくらでも作れる。
仕事の話を聞くだけではなく、私の隣で何を見て、何を好きだと思うのか知りたい。
今夜はお茶を飲み終える前に誘おう。あの人が書斎へ逃げ込んでしまう前に。




