第二話 朝の湯気と、手渡された手袋
翌朝の台所には、まだ夜の名残のような薄青い光が差し込んでいた。
初秋の朝気は肌寒く、湯沸かしの銅鍋から立ち上る白い湯気が、石造りの壁をかすかに湿らせている。私は木製のまな板の上で、赤く色づいた林檎の皮をナイフで薄く剥いていた。昨夜約束したとおり、果皮を煮出して香りを移す特別なお茶を用意するためだ。
鍋の湯が小さく沸き立ち、刻んだ皮とシナモンの樹皮を落とすと、甘く少しスパイシーな香りが台所いっぱいに広がる。茶葉を蒸らす時間を砂時計で計りながら、私は昨夜の夫の横顔を思い出していた。
――明日の朝も、君のお茶を飲みたい。
あの人が自分から頼んでくれたお茶だ。蜂蜜をひとさじ落とし、味を確かめてから、もう少しだけ足した。
身支度を整えた足音が階段を降りてきて、食堂の扉が開く。ポットを運び終えた私は、入口へ顔を向けた。
現れたオルディスは、王都警務局の濃紺の制服を乱れなく着込んでいた。襟元の銀の階級章が朝の光を弾いている。
「おはようございます、オルディス様」
「おはよう、マリーゼ」
彼は定位置の椅子を引いて腰を下ろした。視線が卓上のティーポットへ、それから私の手元へと向かう。
私は温めた白磁のカップに、静かに林檎茶を注いだ。澄んだ琥珀色の液体から、甘い蒸気が立ち上る。
「昨夜のお約束のものです。どうぞ、温かいうちに」
カップを彼の前に置くと、オルディスは両手で包むように持ち上げた。
彼はカップに唇をつけ、一口、ゆっくりと喉を通す。それからソーサーに戻す際、指先にわずかに力が籠もった。
「……美味しい」
低く、抑えた声だったが、迷いはなかった。昨夜口にした言葉を引っ込めることなく、彼はまっすぐに私を見つめていた。
「今朝は蜂蜜が少し多いだろう。口当たりが柔らかくて、温まる」
「気付いてくださったのですか?」
「ああ。君が工夫を重ねてくれたことが、よくわかる」
オルディスは一度、卓上のパンへ目を落とした。それから顔を上げ、私を見た。
「朝、君と茶を飲んでいる間は、仕事のことを考えずにいられる。……毎日、楽しみにしているのだ」
手にしたポットを置くのが、少し遅れた。
昨日までは、朝の挨拶の後にすぐ新聞を開いていた人だ。今日はお茶が冷めるのも忘れたように、私の返事を待っている。
「嬉しいです、オルディス様。そう仰っていただけて、早起きした甲斐がありました」
私が自然と口元を緩めると、オルディスの張り詰めていた表情が、ほんの少しだけ解けた。
私からも伝えたいことがあった。言う機会なら、これまで何度もあったのに。
私は焼きたてのパンを彼の皿に取り分けながら、静かに口を開いた。
「私も、あなたにお礼を言わなければならないことがありました」
「私に?」
オルディスがわずかに眉を寄せる。
「夕暮れ時、私が居間で読書をしていると、あなたが何も言わずに暖炉の火を確かめ、手元のランプの芯を整えてくださるでしょう。外から戻られて疲れているはずなのに、部屋の明かりや温度を気遣ってくださるあの優しさが、私はとても心強いのです」
オルディスはフォークを持った手を止め、小さく瞬きをした。
「それは、家長として気にかけるのが当然だ。薄暗い中で文字を追えば、君の目を痛めてしまう」
「その当然のことを、欠かさずにしてくださるのが嬉しいのです。見ておりますよ、あなたの妻ですから」
まっすぐに返すと、オルディスはわずかに居心地悪そうに背筋を伸ばし直した。耳の端が朝の光に透けて、ほんのりと赤くなっている。他人に妻の美徳を語ることは平気でも、妻から正面切って好意を返されることには、全く慣れていないようだった。
「……そうか。君が寛げているのなら、何よりだ」
短く答えたきり、彼は朝食に向き直った。けれどパンを口へ運ぶ前に、もう一度だけ私を見た。目が合うと、今度は私まで照れてしまった。
やがて、出勤の刻限を告げる柱時計の鐘が鳴った。
オルディスが立ち上がり、身支度を整えるために玄関ホールへと向かう。私もその後に続き、広間の衣紋掛けから彼の濃紺の外套を外した。
「自分で着られる」
「いいえ、私にさせてください」
彼が背を向けて袖に腕を通すと、私は外套を持ち上げ、その肩に沿わせた。ずっしりとした上質のウールが擦れ合う音が響き、布地を通して彼の体温が微かに伝わってきた。
襟元を整え、両肩の皺を手で払う。至近距離で見上げる夫の横顔は、再び冷徹な監察官の佇まいに戻りつつあったが、その瞳は穏やかだった。
「鞄はこちらでよろしいですか?」
「ああ、ありがとう」
足元へ置いた鞄を、彼が左手で受け取った。
靴を履き、身を正したオルディスが扉へ手を伸ばしかけたとき、私は玄関脇の小机の上に目をとめた。黒い鹿革の手袋が、揃えて置かれたままになっている。
「オルディス様、手袋をお忘れです」
私が手に取って差し出すと、彼は足を止め、振り返った。
「すまない、忘れるところだった」
鞄をいったん足元へ置き、オルディスは左手で手袋を受け取った。離れかけた私の指を、空いた右手がそっと掴む。
驚いて見上げると、彼の指に少しだけ力がこもった。
「行ってまいります」
オルディスは私の目をまっすぐに見つめて、告げた。
「今日の夕餉も、楽しみにしている」
手を握ったままそんなことを言われては、今夜の献立を考えるどころではない。
「はい。いってらっしゃいませ、オルディス様」
私が微笑んで応えると、彼は短く頷き、名残惜しそうに私の手をそっと放した。
手袋をはめ、鞄を持ち直した彼を見送ってから、私は自分の右手を見下ろした。
明日の朝も、この手で手袋を渡そう。忘れていなくたって、構わないはずだ。




