第一話 直立の監察官と、届いた告発状
王都に初秋の冷たい風が吹き始めても、夫との夕食は相変わらず静かだった。
カトラリーが陶器の皿に触れる高い音と、窓の外で擦れ合う街路樹の葉音。夫のオルディス・ファルク男爵は背筋をまっすぐに伸ばし、音も立てずにナイフとフォークを動かしていた。黒髪を隙なく撫でつけ、食事の最中も姿勢を崩さない。王都警務局の主席監察官という職責にふさわしい、改まった佇まいだった。
「オルディス様。今夜の煮込みはいかがでしょうか」
今夜の煮込みは、料理人に教わりながら私が作ったものだ。感想を尋ねると、彼はフォークを置き、卓上のナプキンで口元を拭った。
「出汁がよく染みていて、口当たりも穏やかだ。遅い時間に帰った身にはありがたい。君の心遣いに感謝する」
声音は低く落ち着いており、礼儀正しい会釈が添えられる。
結婚して三か月、彼の言葉には常に敬意と配慮があった。食事中に私の水が減れば給仕を促し、夜風が吹き込めば自ら立ち上がって窓を閉めてくれる。形式的な政略結婚とはいえ、私はこの誠実な夫を好ましく思っていた。
けれど、丁寧な言葉を交わすたび、かえって遠く感じることがある。
感謝してもらえるのは嬉しい。それでも、たとえば笑顔がこぼれるような「美味しかった」が聞きたいし、たまには妻としての私自身に向けた素直な感情を受け取ってみたかった。
食事が終わり、オルディスが書斎へ書類を取りに席を外したとき、家政婦頭のハンナが一通の封書を盆に載せて運んできた。
「奥様。先ほど、警務局の使いの者が届けてまいりました。旦那様を通さず、奥様へ直接お渡しするようにと託されたものです」
差出人の欄には、ヨアヒム・リートの名があった。オルディスの士官学校時代からの友人で、同じく警務局で監察官を務めている青年だ。
不思議に思いながら封を解くと、勢いのある筆跡でこう記されていた。
『拝啓、マリーゼ奥方様。
夜分に不躾な手紙をお許しください。しかしこれは警務局第一監察室の精神的平穏を守るため、やむにやまれず差し上げる内部告発であります。
昨日の朝、始業前のオルディスは茶のカップを片手に、我々同僚を前にしてこう言い放ちました。
「妻が淹れてくれる林檎の茶は、果皮の煮出し方から香料の加減まで見事だ。忙しい朝に湯気ひとつで家全体の空気を柔らかくする。あのような細やかな工夫ができる女性は、他にいない」
監察官の厳しい顔のまま、息を継ぐ間もなく語り続けました。始業の鐘が鳴るまで、茶の味も分かりませんでした。
あいつは昔から、身内への情が深いわりに本人を前にすると口が縫い合わされる悪癖があります。外でこれほど盛大に妻を誇っている男です。どうか家の中で発散させてやってください。あいつの惚気を受け止められるのは、妻である貴女様しかおりません』
読み進めるうちに、手紙を持つ指先がかすかに強張った。
昨日淹れた林檎茶の香りが、記憶の底から蘇ってくる。あの朝、彼はカップを空にして「ごちそうさま。温まった」と短く言っただけだった。それなのに職場へ行くや否や、そんな熱量で私の工夫を語っていたというのか。
思わず笑って、もう一度そのくだりを読み返した。
そこまで思ってくれているのなら、どうして目の前にいる私へ直接言ってくれないのだろう。
昨日の朝、私にもそれを言ってくれればよかったのに。
オルディスが居間へ戻ってきたとき、私は手紙を膝の上に伏せ、湯気を立てる林檎茶のポットを手にとった。
「待たせたな」
「いいえ。ちょうどお茶が淹れ終わったところです」
向かいの肘掛け椅子に腰を下ろした彼へ、カップを差し出す。オルディスはそれを受け取り、一口喉を潤した。
「今夜も良い香りだ」
それだけで終わらせようとする夫を見つめ、私は膝の上の便箋にそっと指を添えた。
「オルディス様」
「何かな」
「昨日の朝のお茶のことなのですが」
夫の視線がわずかに止まる。
「お茶の葉や、香料に何かあっただろうか」
「いいえ。とても上手に淹れられたと思っておりました。ただ、昨日の職場で、私の淹れ方について随分と熱心にお話しくださったと伺いました」
オルディスの背筋が、目に見えて強張った。持っていたカップがソーサーの上でわずかに揺れ、小さな陶器の音を立てる。
「どなたから……」
「ヨアヒム様からです。同僚の皆様にお茶を褒めてくださったと、お手紙をいただきました」
オルディスは喉を小さく動かし、視線を卓上の砂糖壺のあたりへ落とした。いつもは表情の乏しい人なのに、耳の縁がじわじわと赤くなっていく。砂糖壺を見ても助けは来ないと思うのだけれど。
私は彼を問い詰めたいわけではなかった。ただ、ずっと胸の内にあった素直な願いを声に乗せる。
「工夫を褒めていただけたのは、とても誇らしくて嬉しいです。でも、あんなふうに外で誰かに聞かせるくらいなら、私にも聞かせてほしいのです」
オルディスがはっと顔を上げた。戸惑いと気まずさの混ざった黒い瞳が、私を捉える。
「結婚したのですから、私の前でも惚気てください」
居間の空気が静まり返った。
オルディスは開いた口を一度閉じ、それから両手でカップを包み込むように握り直した。指先が白くなるほど力がこもっている。
「……本人の前でそのような浮ついたことを口にすれば、君に馴れ馴れしいと嫌がられるかと思ったのだ」
「私は嬉しいですわ。あなたの口から聞きたくて、今夜だって料理の感想をお尋ねしたのです」
まっすぐに告げると、オルディスは観念したように息を漏らした。居心地悪そうに肩をわずかにすくめ、視線を私の目元へと戻してくる。
「……今夜の煮込みも、とても美味しかった。蕪も肉も柔らかくて、帰りが遅くなったのに温かいままだった。君が待っていてくれたことも……嬉しかった」
一語一語を慎重に手繰り寄せるような口調だった。外で淀みなく語っていたという姿とは似ても似つかない、ぎこちない響き。
最後の「嬉しかった」は、とても小さな声だった。聞き逃さなくてよかったと、膝の上の便箋を握った。
「……ありがとうございます。作ってよかったです」
私が自然と口元を緩めると、オルディスは安堵したように、しかしやはり照れを隠せない顔で立ち上がった。
「明日の朝も」
彼は扉の手前で足を止め、こちらを振り返らずに言った。
「明日の朝も、君のお茶を飲みたい。果皮を煮出す、あのお茶を」
「はい。喜んでご用意いたします」
背中越しに小さく頷いた夫は、どこか急ぎ足で部屋を出て行った。
居間に一人残された私は、冷めないうちに自分のカップを傾けた。明日淹れる林檎をどの籠から選ぼうかと、頭の中で台所の棚を思い浮かべながら。




