第十話 葡萄酒と、初めての呼び名
温室を片付けた休日から二日後の夜、我が家の食卓には、秋の収穫を祝う赤葡萄酒が小さなグラスに一杯だけ添えられていた。
夕食を終えて居間へ移った後も、舌にはかすかに葡萄の渋みが残っていたが、小机の上には、葡萄酒の瓶の代わりに白湯のポットが置かれている。
暖炉の中では楢の薪が静かに爆ぜ、橙色の光が絨毯の上に二人の影を落としていた。
「今夜は風が冷たいな」
隣に腰掛けたオルディスが、白湯を注いだ陶器のカップを私の前へ置いてくれた。
「ええ。窓ガラスが少し軋んでおりますね」
あの夕暮れに約束してから、彼が私のすぐ隣に座るようになって、居間の空気は以前とは比べものにならないほど柔らかくなっていた。肩が触れそうな距離から伝わってくる彼の体温に、私はそっと息を吐き出す。
オルディスは自分のカップを手に持ったまま、炎の揺らめきを見つめていた。その横顔には、普段の張り詰めた険しさはない。少し躊躇うように唇を開き、それから低く言葉を零した。
「マリーゼ」
「はい」
「温室で君から言葉をもらってから、ずっと考えていたのだ」
私もすぐに、あのベンチを思い出した。初めて会った日から好ましく思っていたと、ようやく言えた場所だ。
「料理が美味いとか、よく気がつくとか。そればかり言ってきたが、まだ伝えられていないことがある」
「まだ、聞かせてくださるのですか」
「ああ。それだけでは、足りない」
オルディスはこちらへ向き直り、まっすぐに私の瞳を捉える。
「あの仕立て屋へ行った日のことを覚えているだろうか。店主が華やかな外套を勧めてきたとき、君は自分の暮らしに合わせて、袖の使いやすさをはっきりと口にした」
「ええ。手紙を書くときに邪魔にならないように、と申し上げましたね」
「あのとき、嬉しかったのだ。君が私に遠慮せず、自分の好みを言ってくれたことが。それに、君が選んだ鳩羽色の外套を、私が良いと思った理由をちゃんと聞いてくれたことも」
短く言葉を切り、オルディスは小さく息を吸い込んだ。
「君と街を歩くのも、温室で土を払うのも、毎朝お茶を飲むのも……誰といるよりも、心が安らぐ。君の選ぶ言葉や、穏やかな笑い方が、私は好きなのだ」
いつもの冷徹な監察官の淀みない口調ではない。少し途切れ、言葉を探しながら、それでも一歩も引かずに差し出される響き。
オルディスはカップを卓上へ置くと、両手を膝の上で一度握りしめ、覚悟を決めるように言った。
「マリーゼ。……私は、君が好きだ。妻として尊重しているだけでなく、一人の女性として、愛している」
居間の静寂の中に、その声がはっきりと染み渡っていった。
返事をしなければ。そう思うのに、唇がうまく動かなかった。
胸がいっぱいになり、喉の奥が微かに熱を持った。
「オルディス様」
私は膝の上に置いていた自分の手を伸ばし、彼の大きな手の甲に重ねた。
「私も……あなたを愛しています。不器用なところも、真面目すぎるところも、全部……とても愛おしいです」
想いを返すと、オルディスの黒い瞳が揺れた。彼は重ねられた私の手をじっと見つめ、何かを言い淀むように喉を鳴らす。
「マリーゼ」
「はい」
「もう一つだけ、我儘を言ってもいいだろうか」
「何でしょう?」
「二人きりのときだけで構わない。……様付けではなく、名前だけで私を呼んでもらえないだろうか」
思いがけない願いに、私は小さく息を呑んだ。
名前だけを口にするのは初めてだった。何度も呼んできたはずなのに、急に難しくなる。
私は重ねた手に少しだけ力を込め、胸の内でその響きを転がしてから、そっと唇を開いた。
「……オルディス」
たったそれだけの呼びかけなのに、胸が跳ねるように熱くなった。
オルディスは息を呑み、それから目元をふっと和らげた。
「ありがとう、マリーゼ」
彼は深く頷き、静かに私を見つめ直した。
「抱きしめても、いいだろうか」
低く、どこか掠れた問いかけ。
私は頷く代わりに、自分から腰を浮かせ、彼の胸元へと身を寄せた。
引き寄せられるように、オルディスの腕が私の背中へと回される。
ぎゅっと、確かな力で抱きしめられた。上着越しに彼の胸の鼓動が速いリズムで伝わってくる。彼の顎が私の髪のあたりに触れ、深く吸い込まれる呼気が首筋をくすぐった。
「……酒のせいではないな」
腕の中で呟かれた夫の声に、私は思わず笑みをこぼした。
「夕食に、小さな一杯をいただいたきりですわ」
「そうだな。言い訳にはできないな」
オルディスは腕の力をわずかに緩め、私の顔を覗き込んだ。彼も笑っていた。けれど私の頬に触れた指は、まだ少し震えていた。
「明日の朝……陽が昇った後も、同じ言葉を君に伝える。逃げたりはしない」
「はい。楽しみに待っております」
私が答えると、オルディスは慈しむように私の頬に指を添え、額の上に、それから触れ合うだけの短い口づけを唇に落とした。
今度は私から彼の肩へ額を寄せた。
明日の朝も、名前だけで呼ぼう。今夜より、もう少し上手に。




