第十一話 素直の代償
カーテンを開けると、秋の冷たく澄んだ朝の光が寝室いっぱいに差し込んできた。
鏡の前で髪を梳かしながら、私は自分の頬がわずかに熱を帯びているのを感じていた。昨夜の記憶が、薄れるどころか、陽光に照らされて輪郭をくっきりと主張している。
――愛している。
――名前だけで呼んでもらえないだろうか。
居間の暖炉の前で交わした言葉も、重なり合った体温も、触れ合っただけの口づけも、何一つとして夢ではない。そして何より、彼が最後に残した「明日の朝、陽が昇った後も同じ言葉を伝える」という予告が、朝食の時間を目前にして私の足取りを鈍らせていた。
(夫に言葉を求めていたのは私ですのに、いざ朝の光の中で受けるとなると、どうしてこんなに落ち着かないのかしら)
深呼吸を一つ落とし、私は深紅のショールを軽く羽織って部屋を出た。
食堂の扉を開けると、オルディスはすでに定位置に着いていた。
王都警務局の濃紺の制服を身に纏い、背筋を伸ばして新聞を広げている。けれど、私の足音が聞こえた瞬間、彼は迷いなく新聞を卓上に伏せ、顔を上げた。
黒い瞳がまっすぐに私を捉える。
「おはよう、マリーゼ」
その声には、昨夜と同じ温かい響きが確かに宿っていた。
「おはようございます、オルディス……」
普段通りに「様」を続けようとして、昨夜の約束を思い出し、咄嗟に喉で音を止める。視線がぶつかり、逃げ場のない真剣な眼差しに見つめられて、私はたまらず先に目を伏せてしまった。
あんなに言葉を強請っていたくせに。今朝ばかりは夫を笑えなかった。
私が席に着くと、オルディスは姿勢を正したまま、膝の上に両手を置いた。
「昨夜、約束したな」
「ええ」
「朝の光の下でも、同じ言葉を伝えると」
制服姿で膝に手を置き、真面目な顔で私を見る。どうか今だけは、そこまで改まらないでほしい。
オルディスが口を開きかけた、まさにそのときだった。
食堂の扉が静かに開き、ハンナが湯気の立つ銀盆を運んできた。
「旦那様、奥様。焼きたてのパンと、半熟の茹で卵をお持ちいたしました。お茶も新しく淹れてございます」
ハンナは二人の間に流れる奇妙な緊張感に気づいているのかいないのか、淀みのない手つきで皿とカップを並べていく。
「お茶も卵も、冷めないうちにどうぞ」
そう一言だけ添えて一礼すると、彼女は足音もなく去っていった。
取り残された食卓に、カチカチと柱時計の音だけが響く。
オルディスは開いた口を途中で止めたまま、卓上の茹で卵を見つめていた。私はその絶妙な間に耐えきれず、ふっと息を漏らし、それから小さく笑い声を立ててしまった。
「ふふっ」
つられるように、オルディスの肩からもふっと力が抜けた。彼は苦笑混じりに息を吐き、額に指を当てる。
「間が悪かったな」
「いいえ。ハンナの言う通りですわ。お茶も卵も、温かいうちが一番ですもの」
笑い合ったことで、胸を塞いでいた気恥ずかしさが柔らかく解けていった。
オルディスはカップを手に取ると、一口喉を潤し、改めて私の目をしっかりと見つめ直した。今度は、気負いのない穏やかな声だった。
「おはよう、マリーゼ。……昨夜の言葉通りだ。君を愛している」
今度は、目を逸らさずに聞けた。
私は胸元でショールを軽く引き寄せ、自然とこぼれる笑みとともに答えた。
「はい。おはようございます、オルディス。……私も、あなたを愛しています」
名前だけで呼ぶと、彼の眉根がわずかに下がり、満足そうな光がその瞳に満ちた。
オルディスが私の皿へパンを取り分ける。何でもない朝食の続きが、何だかおかしくて、二人ともまだ笑っていた。
食事が終わり、オルディスが手帳を開いて本日の予定を確認していたとき、ハンナが再び姿を現した。今度は、朝の便で届いた数通の手紙を盆に載せている。
「旦那様、今朝の便で、王宮から封書が届いております」
「王宮から?」
オルディスが受け取ったのは、上質な厚手の紙に、王家の紋章が刻まれた深紅の蝋で封をされた大判の書状だった。ペーパーナイフで封を切り、中身を改めた彼が、視線をこちらへ向ける。
「一週間後、王宮で催される初冬の夜会の招待状だ。警務局の監察官として、出席の義務がある」
「夜会ですか」
「ああ。これまでは単身、あるいは形式的に夫婦で顔を出すだけだったが」
オルディスは手紙を卓上に置き、少し真剣な面持ちで私を見つめた。
「マリーゼ、君の体調が良ければ、私と一緒に来てほしい。もちろん、社交の場が負担になるようなら無理にとは言わないが」
妻に窮屈な思いをさせまいとする配慮が、言葉の端々に滲んでいる。
私は首を横に振った。
これまでの夜会では、私たちは互いに礼儀正しく隣に立ち、決められた挨拶を無難にこなすだけの関係だった。けれど、今の私たちは違う。
「喜んでご一緒いたします。その代わり、一つだけお願いがございます」
「何かな」
「夜会では、挨拶を済ませたら、一曲、踊っていただけますか」
これまでの夜会では、彼は他者との付き合いを最小限に留め、ダンスの輪に加わることなどほとんどなかった。
オルディスは驚いたように目を見張り、それから静かに口元を緩めた。
「一曲だけで足りるだろうか」
「え?」
「君の最初の一曲も、最後の一曲も、私がもらうつもりだったのだが」
低く返されたその言葉に、今度は私の方が小さく息を呑んだ。
「……楽しみに、準備をしておきますわ」
「ああ。私も、万全を期して臨もう」
オルディスは手帳を閉じ、制服のボタンを留め直して立ち上がった。
万全を期す、と言われて笑うつもりだったのに、できなかった。卓上の招待状を手に取る。最初も最後も予約されたのだと思うと、指先まで熱くなった。




