第十二話 最初の一曲、最後の一曲
王宮の大広間は、幾百もの硝子球が連なるシャンデリアの金色の光と、華やかな管弦楽の調べに満ちていた。
初冬を告げる夜会には、王都の貴族や高官たちが集い、色とりどりの絹のドレスと礼装の勲章が煌びやかに波打っている。
王族への挨拶を済ませ、大広間へ戻ったところで、私はオルディスの差し出した右腕に、そっと自分の手を滑り込ませた。
今夜の夫は、警務局の主席監察官として銀の飾緒を肩に垂らした黒の正礼装を纏っていた。引き締まった体躯に仕立ての良い上着が映え、整えられた黒髪の下の横顔は、周囲の視線を集めるに十分な威厳を放っている。
私自身も、夫が好むと言ってくれた夜空のような深い紺青のドレスに身を包んでいた。以前は並んで挨拶をするだけで精いっぱいだった。今夜は彼の腕に手を添えて、早く曲が始まらないかと待っている。
「マリーゼ、体調は悪くないか」
オルディスがわずかに身を屈め、耳元に低く囁いてくる。
「ええ。とても気分が良いですわ」
ちょうどそのとき、広間の中央から軽快なワルツの第一小節が響き始めた。談笑していた貴族たちがフロアの端へと下がり、中央に空間が広がる。
私は彼を見上げ、腕に添えた指先に少しだけ力を込めた。
「約束の最初の一曲ですわ、オルディス」
名前を呼んで促すと、オルディスの黒い瞳に微かな驚きと、それから確かな光が宿った。
「ああ。行こう」
彼は迷いなく私をエスコートし、フロアの中央へと足を踏み入れた。
いつも壁際に控えている主席監察官が最初に踊り出たことに、周囲から微かなざわめきが起きる。オルディスは右手を私の背中へ回し、左手で私の右手を包み込んだ。
ステップを踏み出した瞬間、彼の背筋がいつも以上に張り詰めているのが伝わってきた。軍の規律のような正確な足取りだが、どこか硬い。
回転の合間に、私は彼の肩口を見つめ、声を潜めて囁いた。
「オルディス、少し緊張していらっしゃいます?」
「……これほど美しい妻の手を取っていれば、平常心を保つ方が難しい」
大真面目な顔のまま返された台詞に、私は堪えきれずにくすりと笑ってしまった。
私の笑い声に釣られるように、オルディスの肩からすっと力が抜けた。強張っていた足運びが柔らかく解け、二人の呼吸がふっと一つに重なる。
彼は私の歩幅に合わせ、滑らかに向きを変え、音楽のうねりに乗せて軽やかにフロアを巡った。視線が交差するたび、私まで笑ってしまいそうになった。
曲が終わり、丁寧な礼を交わしてフロアを辞したとき、給仕からグラスを受け取ったヨアヒムが歩み寄ってきた。彼もまた礼服を着込んでいるが、相変わらずその口元には気安い笑みが浮かんでいる。
「お見事でした、ファルク監察官殿。曲の間中、一度たりとも奥方様から目を離されませんでしたね。警務局の連中が見たら拝み倒すところですよ」
「ヨアヒム。公務の場で無駄口を叩くな」
オルディスがいつもの厳しい顔を作ってみせるが、ヨアヒムは意に介さず、私に果実酒のグラスを手渡してくれた。
「奥方様、旦那様は局でも『妻には紺青のドレスがよく似合う。夜会の当日が待ち遠しい』と昨日の夕方も話しておいででしたよ。確かに、その深い紺青は奥方様によくお似合いです」
「ありがとうございます、ヨアヒム様」
私が微笑むと、すぐ側から別の声がかかった。夫と何度か挨拶を交わしたことのある、法務院の伯爵とその夫人だった。
「ファルク監察官、ご夫婦でのご出席、喜ばしいことですな。その堅さでは、奥方にも決まりを細かく言っておられるのでは?」
笑いを含んだ口調だったが、私が手を添えた夫の腕に、少し力が入った。オルディスが答える前に、そちらへ顔を向ける。
「家では、私の読書のためにランプの芯を整えてくださる方ですわ。私が夜更かしをしても、お小言の代わりに毛布が届きます」
伯爵夫人が、あら、と微笑んだ。
「先日は職場で、部下の方へ休養を勧めていらっしゃるところも拝見しました。口数は多くありませんけれど、よく人を見てくださるのです。私は、そんな夫を尊敬しております」
伯爵は夫人と顔を見合わせ、軽く片手を上げた。
「これは失礼。余計な心配をしましたな」
夫妻が立ち去った後、私は隣を振り返った。
オルディスは立ち尽くしたまま、耳を赤くしていた。胸元の飾緒に触れ、声を落とす。
「マリーゼ。毛布の話までしなくても」
「外で私のことを惚気てくださるのですから、私だって公の場で、私の夫の素晴らしさを誇ってもよろしいでしょう?」
悪戯っぽく見上げると、オルディスは観念したように喉を鳴らし、そっと私の耳元へ唇を寄せた。
「……完敗だ。これ以上、君に惚れ直させないでくれ」
耳元をかすめた声に、今度は私が黙ってしまった。そばでヨアヒムが咳払いをしたので、夫はようやく顔を離した。
夜会が終盤に差し掛かった頃、約束されていた「最後の一曲」が演奏された。
再びフロアへ進み出た私たちは、最初の一曲よりもずっと自然に、まるで互いの鼓動を確かめ合うようにしてステップを重ねた。見つめ合う瞳の中に、他人の視線はもう入り込んでこなかった。
王宮を出て、迎えの馬車に乗り込んだときには、冷たい夜風が王都の並木を吹き抜けていた。
車輪が石畳を軋ませて走り出す。座席に腰を下ろすと、ドレスの裾が足元に広がった。
オルディスは私の隣に腰を下ろし、黒い鹿革の手袋を外すと、私の素手をそっと包み込んできた。指と指を絡め合わせるようにして、ぎゅっと力を込める。
「疲れただろう」
「いいえ。とても楽しい夜でした、オルディス」
「ああ。私もだ」
馬車が角を曲がり、王宮の明かりが窓から消えた。
最後の曲はもう終わったのに、彼の手はまだ私を離さなかった。




