第十三話 初雪の日の約束
翌朝、寝室のカーテンを引いた私は、思わず息を呑んで窓ガラスに指を触れた。
庭の芝生も、敷石の小道も、遠くに見える街並みの屋根も、すべてが薄い白布を広げたように淡く染まっていた。王都に訪れた、今季初めての雪だった。
急いで身支度を整え、あの鳩羽色の外套に袖を通す。首元には、夫から贈られた深紅の山羊毛のショールをしっかりと巻いた。
階下へ降りると、玄関ホールで長靴を履こうとしていたオルディスが振り返った。非番の日の落ち着いた私服に、厚手の革手袋を手に持っている。
「もう起きていたのか、マリーゼ」
「ええ。雪が降ったのを見て、温室が気になりまして。私もご一緒してよろしいですか」
「ああ。少し冷え込んでいる、足元に気をつけなさい」
外へ出ると、張り詰めた冬の空気が肌を刺した。
まだ誰も踏んでいない真っ白な庭に、並んだ二対の足跡を刻みながら裏庭へと向かう。吐き出す息が白く揺れ、雪を踏みしめる乾いた音が静かに響いていた。
裏庭の温室は、丸いガラス天井の上にうっすらと雪の層を乗せていた。
鍵を開けて中へ入ると、外の風が遮られ、乾燥した土と青葉の匂いが迎えてくれる。先日運び込んだゼラニウムや香草の鉢植えは、凍えることもなく、緑の葉を保っていた。
「隙間風は入っていないようだな。鉄枠の留め金も緩んでいない」
オルディスは手袋を外し、素手で天窓の金具を一つ一つ確かめていく。
私も棚に歩み寄り、鉢の土にそっと指を当ててみた。
「土も凍っていません。ひとまず大丈夫そうですわね」
「ああ。だが、もっと冷え込む前に隙間を塞いでおこう。鉢の周りに敷く藁も用意した方がいいな」
「では、私はそれをハンナに頼んでおきます」
オルディスは安堵したように息をつき、空いている棚の一角に目を留めた。
「球根を選びに行く約束も、延びたままだったな」
「ええ。夜会の準備がありましたから、種苗店へ行くのを延ばしておりましたもの」
「次の非番の日に、街へ選びに行こう。水仙でも鬱金香でも、君が春に見たい花を好きなだけ選ぶといい。土作りは私がやっておく」
「嬉しいですわ。どんな色を並べるか、手帳に書き出しておきますね」
春の約束が自然に交わされる。今度の休日だけでなく、春に二人で花を見る話をしている。それが嬉しかった。
温室の中央にある木製ベンチに腰を下ろすと、オルディスも私の隣に腰掛けた。
ガラス越しに見える庭は白一色で、静寂が二人の周りを優しく包み込んでいる。
「マリーゼ」
オルディスが、雪の積もった庭を見つめたまま、静かに口を開いた。
「この家での暮らしは、君にとって息苦しくないだろうか」
「息苦しいだなんて、どうしてそんなことを仰るのです?」
「元々は、家同士の都合で結ばれた結婚だった。君の生家の居心地や、社交の華やかさと比べれば、この屋敷での暮らしは地味で、何もないように思えてな。私の仕事も、君を一人で待たせることが多い」
仕事で帰りが遅くなるたび、この人は必ず詫びてくれる。そのたびに私が「大丈夫です」と答えるだけでは、伝わらなかったこともあるのだろう。
私は首を横に振った。深紅のショールを手元で引き寄せ、彼の横顔をしっかりと見つめる。
「何もないだなんて、一度も思ったことはありません。むしろ、私はこの家で、あなたと過ごす時間が何よりも大切です。でも、もし許されるなら、私からもこれから欲しいものを口にしてもよろしいでしょうか」
「欲しいもの?」
「ええ。二人で暮らすうちに、欲張りになってしまいました」
オルディスは姿勢を正し、真剣な眼差しで私の言葉を待った。
私は胸の内に温めていた素朴な願いを、一つずつ言葉にして手渡していく。
「朝、出勤される前の少しの時間、こうして二人で庭や温室の様子を見たいのです。お茶を飲むだけでなく、今日という日を一緒に始める時間がほしい」
「ああ。早朝の出勤がない日は、一緒に見に来よう」
「それから、お疲れの日には、私にも『疲れた』と言ってください。お話を聞くことくらいは、できますから」
オルディスが小さく息を呑んだ。
膝の上に置かれた彼の手に、自分の手を重ねた。
「ありがとう。今度は、そうする」
その返事を聞いてから、私は続けた。
「私も、寂しいときはそう言います。大丈夫と答えておきながら、気づいてほしいと思うのは、やめますわ」
言い終えると、オルディスは長い沈黙の後、深く息を吐き出した。
彼の手が伸びてきて、私の鳩羽色の外套の袖の上から、腕を優しく引き寄せられた。そのまま、彼の肩口へと私の体が抱きとめられる。
「マリーゼ」
耳元に落ちた声は、温かく震えていた。
「君に寂しい思いをさせていたのだな」
「帰ってきてくだされば嬉しいです。でも、こうしてお話しできると、もっと嬉しいのです」
「そうか。……本当に、君には敵わないな」
オルディスは腕に力を込め、私の肩を抱きしめた。
抱き寄せられた頬に、彼の外套の襟が触れた。しばらくそのままでいたら、温室を出るのが惜しくなってしまった。
やがて、雲の切れ間から初冬の淡い朝日が差し込み、温室のガラス屋根の雪が音を立てて滑り落ちた。
「戻ろうか。朝食が冷めてしまう」
「ええ」
オルディスが手袋をはめ直し、二人で温室を出た。その扉に鍵をかけたところで、私は彼のコートの裾をそっと引いた。
振り返ったオルディスを見上げ、私は少しだけ躊躇いながら、けれどはっきりと本音を告げた。
「オルディス」
「何かな」
「今夜は……夜の読書を終えた後も、もう少し長く、私のそばにいてくださる?」
オルディスの黒い瞳が、わずかに見開かれた。
手を差し出すと、オルディスは自分の革手袋で包んでくれた。さっきよりも少し強く握り、頷く。
「ああ。……今夜は、部屋へ戻らない」
母屋へ戻る間、二人とも口数が減った。けれど玄関が見えてきても、どちらからも手を放そうとはしなかった。




