2、ネコちゃんは今日も立ち向かう!②
「こんにちは、姉上」
感情の見えない瞳が、こちらを静かに見つめている。ライラは思わず身震いし、一歩後ろへと下がった。
なんでよ。なんで、私が決意した矢先に現れるのよ。これで何度目なの?
どうしていつも憎らしいほど涼しい顔で立っているの?
いっそ怒ればいいじゃない。軽蔑すれば?
そんなに私は取るに足らない存在?
ライラがアレンを睨んでいると、彼の視線がライラの手に移る。
その瞬間、彼女の鼓動が沸き立つように激しくなる。
(まずい……!)
そう思った時には、もう遅い。ライラの手にあった薬瓶は、あっさりと彼の手に渡ってしまったのだ。
(なんなの、なんなの、なんなのよ……!)
どうしていつもこうなるの……!
私には少しの反撃さえも許されないと言うわけ?
ライラの瞳には黒い影が宿り、激しい感情が滲んでいる。
アレンは、ライラの瞳を確認するように静かに見つめていた。そして、一歩、また一歩と距離を詰めていく。
ライラも後ずさるように足を後ろへ動かしていく。
気づけば、部屋の壁際まで追い詰められてしまった。
ライラの額には、じっとりと汗が滲んでいた。アレンの視線だけが、突き刺さっていく。窓に映る夕焼けが異様なほど不気味に感じられた。彼はしばらく沈黙を貫いていたが、やがて静かに息を吐いた。
「……いつまでこんなことを続けるつもりですか。姉上は」
「なんなのよ……! いいから返してよ!」
頭に血が上ったかのように熱くなった。ライラは背伸びをして薬瓶へと手を伸ばす。しかし、アレンは腕を上げ、決して薬瓶を離さなかった。どこまでも無力な自分に、打ちのめされそうだった。
「なんであなたはいつもそんなに余裕そうなのよ……! むかつく、本当にむかつく……!」
その時だった。アレンがライラの顔を覗き込むようにして、顔を近づける。ただでさえ近かった距離がさらに詰まり、息も上手く吸えない。
「…………そんなに俺のことが好きですか?」
その瞬間、時が止まったかと思った。
(す、き……? 私が? あなたを?)
言葉の意味が分からず、ライラの動きが止まる。けれど、すぐに我に返るとアレンを激しく睨みつけた。
「何を言っているの? 自惚れるのも大概にしなさいよ」
「ですが、そうでしょう。あなたの今までの行動を思い出してみてください」
アレンは、まるで宥めるように、ひどく穏やかに笑みを浮かべた。そして、唇が触れそうなほど、さらに顔を寄せてくる。
「…………っ」
ライラは思わず、身体を強張らせた。
「姉上は何を望んでいるのですか?」
「はっ! あなたなんかに望むものなんてあるわけないでしょう」
「……そうですか」
アレンは視線を逸らすと、一瞬黙り込む。いつもの静かな瞳に少し影が刺したように見えた。
こちらが追い詰められているはずなのに。なぜだか自分が責めているような気分になる。
居心地が悪くなったライラは、眉に皺を寄せた。アレンの瞳がゆっくりとこちらを捉える。彼の考えが読めずに、言葉が思い浮かばない。すると、縋るような視線で彼の口が開かれた。
「本当に……何もありませんか」
ライラは言葉に詰まった。
(何……、その顔は)
思わずそうよぎったけれど、すぐにある考えが思い浮かぶ。
(まって……これはチャンスじゃないかしら)
ずっとこの男の涼しい顔が腹立たしくて仕方なかったのだ。これは一矢報いることのできる機会なのかもしれない。
「――跪きなさい」
ライラは冷たく告げると、片足をスッとアレンの方へ伸ばした。
アレンはしばらく黙り込んでいた。けれど、ライラは見逃さなかったのだ。アレンの瞳がわずかに揺れたことを。
(動揺しているわ……!)
ずっと薄暗かった世界に、光が差し込むような感覚を覚えた。
ライラの口元がかすかに歪んだ。
なんだ。最初からそうすればよかったわ。この男も流石にこれはプライドが許さないみたいね。
そうよ。私は正当な公爵家の血筋でこの男は元平民。立場は明確だわ。今まで私は何を恐れて――。
「……わかりました。姉上がお望みなら」
「……え?」
アレンはゆっくりと片膝をつくと、そっと差し出された足を優しく支えた。まるで壊れ物を扱うような動作に、息を呑んだ。
アレンは丁寧な手つきでライラの靴を脱がせると、そのまま足の甲に口付けた。
「ちょっ……!」
アレンはライラの足に唇をつけながら、その視線はしっかりとライラの瞳を捉えている。
「な、何をしているの!? あなたにはプライドってものがないのかしら……!?」
「……姉上がこうしろと」
「本当にする人がある!?」
ライラは足を勢いよく振り払い、アレンから少し離れる。アレンは床に膝をついたまま、自身の手を見つめていた。
彼に本当に跪いて欲しかったわけではない。ただ、彼の表情が崩れる瞬間を見たかったのだ。これじゃ意味がない。
なんで私が追い詰められているような気分にならなきゃいけないのよ!
ライラは苛立ったままアレンに視線を移すと、静かに熱を孕んだ瞳と目が合う。
その瞳に囚われそうで、ライラの身体にぐっと力が入った。顔中に熱が集まっていることが自分でも分かる。耳まで熱い。
すると、アレンは様子を窺うように、どこまでも優しく声を落とす。
「……触れてはいけませんでしたか」
「……っ! 意味が分からないわ! もういいから出ていって」
その場を離れたくて、後ろを向いたその時。腕をぐいっと引き寄せられた。
「姉上はなぜ、ずっと俺に構うのでしょうか」
「か、構う……? そんな覚えはないわよ! もういいから離して!」
「……姉上は、俺以外の人間には興味がないかのように振る舞うから」
思いもよらない言葉に、ライラの動きが止まった。
アレンは腕を掴んだまま、静かに彼女を見つめている。その眼差しが妙に熱っぽい。
「頭がおかしくなりそうです」
「な、何を……」
「……違いますか?」
問いかける声は、いつもと変わらず穏やかだった。
けれど、その碧い瞳だけが違った。いつものような静けさの奥に、隠しきれない熱が滲んでいた。
ライラは思わず息を呑んだ。
こんな目をするアレンを、知らない。
いつだって何をしても動じなかった。
嫌味を言っても、罠を仕掛けても、彼は涼しい顔でかわしてきた。
なのに今は――。
まるで、私のことしか見えていないような。
「…………アレン?」
思わず、名前を呼んだ。
その瞬間、アレンの瞳がわずかに揺れた。けれど、相変わらず腕は離さない。むしろ、ほんの少しだけ身体を引き寄せられる。
「姉上」
「な、何よ……」
アレンはライラをじっと見つめる。
そして、アレンの視線がライラの唇に落ちた。それだけで、胸が大きく跳ねた。ただでさえ赤かった顔がもっと赤くなってしまう。もう耳まで熱い。
すると、アレンの身体がぴくりと揺れ、その瞳が大きく見開かれた。そして、次の瞬間には彼の顔がこちらへと近づいてきた。
逃げようと思えば、逃げられた。けれど、ライラの身体は動かなかった。碧い瞳から目を逸らすこともできなかった。
そして――。
唇と唇がそっと重なった。
「…………っ」
何が起きたのか理解するまでに、数秒かかった。
「な、何するのよ!」
ライラは勢いよく身体を捩り、アレンの腕から逃れる。
もう心臓がうるさくて仕方なかった。何より頭の中が真っ白で、どうすればいいのか分からなかった。
そんなライラを見つめながら、アレンは親指で自身の唇をゆっくりとなぞった。
なぜかその動作に見入ってしまう。
「……こういうのも悪くないですね」
「本当に、何を言っているのかしら……!」
いつまでも出て行こうとしないこの男をすぐにでも追い出したくなって、ライラはアレンの胸を両手で押した。
「もう出ていって!」
「ですが」
「出ていって!」
ぐいぐいと押され、アレンはされるがままに後ろへ下がっていく。扉の前まで追いやられても、彼は抵抗しなかった。
ただ、最後までライラから視線を逸らさない。
その視線が妙に熱っぽくて、ライラは余計に落ち着かなくなる。
「……何よ」
「いえ」
アレンはほんの少しだけ口元を緩めた。
「……かわいいなと思いまして」
「――っ!?」
「おやすみなさい、姉上」
そう言い残し、アレンは扉を閉めて出て行ってしまった。
静寂が戻った部屋の中で、ライラは扉を呆然を見つめた。
どれくらいそうしていただろう。急にハッと我に返ると、ライラは扉を睨め付けた。
「…………何なのよ、あの男……!」
それは間違いなく怒りのはずだった。
でも、なぜだか心臓が騒がしい。
「…………はあ」
ライラはその場に座り込むと、真っ赤になった顔を両手で覆った。
一方、その扉の向こうでは。
「…………」
アレンもまた、壁に背を預けたまま動けずにいた。
そしておもむろに髪の毛をぐしゃりとかき上げる。
「……姉上」
そう小さく呟くと、アレンはその場にしゃがみ込んだ。両手で顔を覆うと、息を深く吐く。
「……本当に、してしまった」
消え入りそうなほど、頼りない声だった。
アレンは両膝に顔を埋めると、静かにその目を閉じる。
その隠された表情の下で、彼はほんの少しだけ笑っていた。




