1、ネコチャンは今日も立ち向かう!①
外はもう、日が落ちていた。薄暗い部屋の中で、男が腕を組み、ライラの行く手を阻んでいる。
「……いつまでこんなことを続けるつもりですか。姉上は」
男は背が高い。見上げなければならないことすら腹立たしくて、ライラはキッと睨みつけた。けれど、目の前の男は顔色ひとつ変えない。
いつもそうだ。
この、涼しい顔で佇んでいる男は――アレン・ペルセイン。私の義弟だ。
「なんであなたはいつもそんなに余裕そうなのよ……! むかつく、本当にむかつく……!」
その時だった。アレンが、不意にライラの顔を覗き込むようにして身を屈めた。突然、鼻を抜ける香水の香りに、なんだか妙な気分になった。
「…………そんなに俺のことが好きですか?」
一瞬で頭が真っ白になった。けれど、ライラはすぐに我に返る。
「何を言っているの? 自惚れるのも大概にしなさいよ」
「ですが、そうでしょう。あなたの今までの行動を思い出してみてください」
アレンは、まるで宥めるように、ひどく穏やかに笑みを浮かべた。そして、さらに顔を寄せてくる。
「…………っ」
唇が触れそうなほどの距離に、ライラの身体が強張った。
「姉上は何を望んでいるのですか?」
ライラはごくりと息を呑んだ。まるで獰猛な獣の前に、丸裸で放り出されたような気分だった。アレンの瞳は、ライラを貫くように、決して離さない。ライラもまた、その瞳から目を逸らすことができなかった。
……私は、彼を――。
◇
綺麗な人だと思った。
公爵家にアレンが初めてやってきた時、ライラはこんな風に思っていたことを覚えている。
特にあの瞳だ。吸い込まれそうになるほど、どこまでも碧く澄んでいて。その碧い瞳に今にも飲み込まれそうになり、思考がぐらりと揺れる。
しかし、ライラはこの存在を認めたくはなかった。いや、絶対に認めてはいけない。自分の居場所が奪われるような本能的な危機を感じたからだ。それでも、我儘な娘として父に嫌われたくはなかった。だから、必死に歯を食いしばる。
――嫌だと思っていることを、顔に出してはいけない。
「……よろしくね」
ライラはやっとのことで声を振り絞り、無理やり笑顔を作った。
アレンは一瞬、言葉を失ったかのように目を大きく見開いてた。しばらく無言でライラを見つめていたが、彼は我に返った様に深々と頭を下げる。
「よろしくお願いします」
これが、ライラとアレンの出会いであった。
アレンは後妻の連れ子だ。血の繋がりはもちろんない。
けれど、ライラにとってひとつ問題があった。
その後妻は、父の浮気相手だった。その事実を知った母は、ほどなくして自ら命を絶った。ライラの心には、今もその傷が深く残っている。それなのに、父は母が亡くなってすぐに後妻とその息子を迎えたのだ。
それでもライラは必死に耐えた。なぜなら、父は後妻とアレンをすごく大切にしていたからだ。
母を失ったばかりのライラには、それが余計に苦しかった。
味方だった母はもういない。この人たちが唯一の家族。それなら感情を押し殺して仲良くなろうと、ライラは決意した。
しかし、それはそう簡単には上手くいかなかったのだ。
アレンは優秀だった。学問を教えればすぐに頭角を表し、剣を握れば大人顔負けの腕を見せた。彼が平民だったとは、とても思えないほどに。そうして、周囲の人々のアレンを見る目が徐々に変わっていった。
同時に、自分の足元がどんどん崩されていくような感覚が積み重なってゆく。
アレンのことなんて、見たくもないのに視線はどうしても彼を追ってしまっていた。
(……平民のくせに)
ライラの胸は重苦しい何かで覆い尽くされるかのようだった。
それからだ。ライラがアレンに嫌がらせをするようになったのは。
ライラは、アレンを見るたびに悪態をついていた。
「平民のくせに」
「まるで家畜のような臭いで鼻が曲がってしまいそう。……ああ、平民だったものね?」
「あなたのその辛気臭い顔、どうにかしなさいよ」
その内容は、誰が聞いても酷いものだった。
ライラ自身も、自分がきっと醜い笑みを浮かべていることを自覚していた。
それでも自分の口から出る言葉は、毒ばかりだった。
そして、嫌がらせは徐々に簡単には見過ごせないものへと変わっていく。
とある大事なパーティーで、ライラはアレンに間違った日時を伝えていた。
パーティー会場でライラは焼き菓子を口にしながら、ひとりほくそ笑んでいた。
(恥をかけばいいのよ)
けれど、アレンは時間通りにやってきた。
「…………え?」
「姉上が教えてくださった日時と招待状の日時が違ったので、念のため確認しました」
ライラは目を丸くさせ、周囲はざわつきながら二人の様子を窺っていた。
またある日の剣術大会。
「平民出身のあなたが勝てるわけないでしょう?」
ライラはアレンを挑発し、彼の剣にこっそりと細工を施す。剣の柄を緩めていたのだ。
しかし、試合の直前に違和感を感じたアレンは、剣を新しいものに変えた。
そして、アレンは素晴らしい剣裁きで大会を優勝した。
ライラは、大変不愉快だった。そんなライラの元にアレンは近づくと、感情のこもっていない声で淡々と礼を告げる。
「姉上、ありがとうございます」
「……何がよ」
意味がわからなかった。けれど、それはすぐに覆される。
「おかげで、試合前に剣の点検をする習慣がつきました」
(ムカつく……!)
なによ、なんなの。嫌味なの?
それは、分かってて言っているの?
そして、またある時。
アレンがアカデミーに通っていた頃。ライラはアレンの大事な提出物を隠した。
(これで、評価が下がってしまえばいいのよ)
けれど、隠したはずの書類をアレンが持って、ライラの前にやってきた。
「姉上。こちらをお預かりいただいていましたよね?」
「……え?」
「昨夜、俺の机からなくなっていたので。姉上の部屋にあると思っていました」
なんて事ない顔でアレンはそれだけ言うと、アカデミーにさっさと行ってしまった。
(あの男…………!)
ただでさえ存在が憎らしいのに、去っていく背中が余計にライラをイラつかせた。
ライラはアレンに嫌がらせをし続けるが、アレンはことごとく躱していく。
何をしても動じない。
何を言っても怒らない。
まるで自分のことなんて、相手をする価値もない人間と見下ろされている気分だった。
だからこそだ。彼女は、来る日も来る日もアレンに何をしようか、何を悪態つこうかと考え続けては実行していたのだ。
そんな彼女を、人々はどう見ていたのか。
それでも、ライラはやめなかった。毎日、毎日とにかくアレンのことばかり考えていた。
ライラは傍目に見れば、見目麗しく美人。艶やかな金髪をさらりと靡かせ、白玉のように柔らかな肌。人を惑わせるような美貌を持っていた。
ひとたび笑顔を見せれば、その場の全員が息を呑む。
それでもライラに近づく男はいなかった。
なぜなら、他の人の目に映るライラは、来る日も来る日もアレンに嫌がらせを続けている悪女だったからだ。それに、彼女はどんな悪評が立とうと、彼への嫌がらせをやめない。何度も、何度もだ。
それはまるで執着しているかのように、アレンのことしか目に入らない女として人々には映っていたのだ。
もちろんライラにそんな自覚はない。
(あの男……どこまでも私を馬鹿にして……!)
どこまでも躱し続けるアレンに、ライラの鬱憤はたまりに溜まっていた。ぶつけようもない感情に、自分自身が潰されそうになる。
そんな中、ライラにとって最も屈辱的な出来事が起こる。
とある皇宮でのパーティーでのことだ。
ライラはパーティーが嫌いだった。ひとたび姿を見せれば、壁の花になろうとしても人々の視線が突き刺さる。
そのため、パーティーのたびに、どうすれば目立ずに過ごすことができるのか、そればかり考えていた。それでも、視線が気になって仕方がなかった。
分かっている。こんなに執拗にアレンを攻撃しているのだ。とんだ悪女だと、見世物にされているに違いない。特に、男たちの舐め回すような視線が気持ち悪くて、今にも帰りたい気分になる。
時間が経過していくほどに、重なっていく視線に息苦しさを覚えたライラは、会場の外へと静かに出ていった。何も考えたくなくて、ただ静かに庭園の花々を見ていたその時。
生垣を掻き分けるように、がさりと物音がした。反射的に身構えると、音がする方へと顔を向ける。
「ライラ様……」
現れたのは見知らぬ男だった。酒に酔っているのか恍惚とした表情で、ゆったりとこちらへ近づく。ライラは本能的に危機感を感じたが、なぜだか足が動かなかった。
男がライラの前までやってくると、男の視線がライラの全身をゆっくりと上下する。その時間がやけに長く感じられた。
(き、気持ち悪い……)
すると突然、男の手がライラの肩に触れた。
「や、やめなさい! 誰に触れているのよ!」
喉が震えるように声が出た。男から離れようと身体を捩るが、今度は手首を掴まれた。
「…………っ!」
「ライラ様は、本当にお美しいです……」
うっとりとした男の視線に全身が粟立つように震えた。
(気持ち悪い、気持ち悪い……!)
逃げ出したいのに、上手く動けない。このままではまずいと警鐘が鳴り止まない。
そして、男の顔が近づいたその時――。
男の身体が勢いよく地面に倒れ込んだ。先ほどまであった手首の気持ち悪い感覚が、途端になくなる。
(……え?)
何が起きたのか分からず、ライラはただ目の前を見つめていた。
そこにいたのは、アレンだった。
アレンは倒れた男の胸ぐらを掴む。無言でその身体を地面へ押さえつけると、男の上に跨った。
「……アレン?」
呼びかけても目は合わず、返事もなかった。
ただ、いつもの静かな碧い瞳が、今はひどく冷たく見えた。
次の瞬間、男へ拳が振り下ろされる。
鈍い音が響き、彼はもう一度拳を振り落とす。
男が呻き声を上げても、アレンは止まらない。その表情からは、怒りさえ読み取れなかった。ただ、ひどく静かだった。
ライラは息を呑む。
(アレン……?)
目の前で起きていることが、現実なのか夢なのかすら分からなくなっていた。ただ茫然と目の前の出来事を、見つめていた。それでも硬く握られた自身の手に汗が滲んでいることだけは分かった。
やがて男の口元から血が滲むと、アレンの拳が止まった。しばらく男を見下ろしたあと、アレンはゆっくりと立ち上がる。
そして何事もなかったかのように、ライラへ視線を向けた。碧い瞳がじっとこちらを見つめる。
「…………騎士を呼んで参ります」
そう言った声だけが、ほんの僅かに低くなっていた。
「姉上はこちらへ」
アレンは手を伸ばすと、ライラの腕を強く掴んだ。
ライラは一瞬、目を見開く。けれど、アレンはすぐに手を離した。
そのまま、彼は前を向き、無言で歩き出して行ったのだ。
促されるように、ライラはアレンの背中を慌てて着いて行った。やがて騎士に保護されると、馬車へと乗せられる。
「姉上はもう帰ったほうが良いでしょう」
アレンはライラの肩にブランケットをかけながら、それだけ告げた。
馬車のドアを閉める直前、アレンの手が僅かに止まった。わずかに口を動かしていたが、すぐに閉じてしまう。そのまま彼は会場に戻って行ってしまった。
急に世界が静かになったみたいだった。
けれど、嗅ぎ慣れた馬車の匂いに、ぼやけていた世界が徐々に現実味を帯びてくる。
なんだか彼の静かな瞳が、急に腹立たしく思えたのだ。助けてくれたのは分かってる。あのままだとどんな酷いことになったのか想像もつかない。だから、もちろん感謝している。
(……ただ)
あんなことが起きても、表情一つ変えずに、こちらを気遣うような言葉は何もなかったのだ。いつもと同じ涼しい顔で。まるで淡々と業務を終えた人間のようだった。
ライラは馬車の壁に身体を寄り掛からせると、爪が食い込むほど拳を強く握りしめた。
(私はこんな目にあったのよ……!? なのに、あの態度は何!?)
どこまでも自分が無力な存在であることを、思い知らされるようで。
(そう……。やっぱり私は、相手をする価値もないって。そういうことなのよね)
だから、何をしても涼しい顔で躱して、こちらの罪を問うようなこともしない。
今回のことも、ただ淡々と処理しているようにしか見えなかった。
(さっき……私は、すごく怖い思いをしたのよ……)
ライラはブランケットをギュッと握りしめる。
「…………っ」
そして、小さく声を漏らしながら、ライラは頬を濡らしていた。
この頃からだろうか。気づけばライラは、無意識に爪を噛むようになった。美しかった爪先はボロボロだ。
(なんで、私ばかりが苦しいのよ)
ライラ自身、頭では分かっていた。自分がどれだけ愚かなことをしているのか。それでも止まれなかった。
このまま続けても、アレンは涼しい顔で躱していく。傷だらけになるのは、自分だけなのだ。今のままでは、破滅の道しかないことも十分理解していた。
しかし、彼女にとってのほんのわずか残されたプライドが、止まることを許してくれなかった。
(ああ、もういいわ。落ちるところまで落ちましょう。どうせ地獄に落ちるのなら――道連れにしてやる)
そう暗く決意したライラが、手にしたのは一つの薬瓶だった。
(これであの男も終わりよ)
ライラの手にあるそれは、胃腸に強い刺激を与える薬だ。
(これを飲んで、大勢の人の前で吐いたりお腹を下せば、もう二度とあんな涼しい顔をして出歩けないはずよ……!)
そうして、ライラは自室のドアを開けたその時、目の前に硬く鍛えられた胸板とぶつかる。
驚いて顔を上げれば、その目に映るのはライラが憎んで仕方ないあの男だった。
「アレン…………!」




