47. 決着
「テストゥードー。俺との契約を覚えているか」
クラヴィスは剣を携え、テストゥードーへと歩み寄った。ああ、と彼は応じる。
「マーレを正気に戻したら、サフィラを助けると言ったね」
「では、その前だ。サフィラとは、どういう契約を交わした」
ふむ、と、ガラス玉のような瞳が瞬きをする。クラヴィスはサフィラの衣服をゆるめ、そっと地面へ横たえた。
「少しだけ待ってろ。すぐ助ける」
そう言って、彼は立ち上がる。すらり、と剣を抜く音がした。テストゥードーと戦うつもりらしい。
「私と戦う気か? 神に逆らうとなれば、私も容赦はできない」
「やってみろ。俺の方が、お前を殺してみせる」
クラヴィスが吠えた。テストゥードーがため息をつく気配がする。声が降る場所が高くなった。ひたり、と二本足の足音が、クラヴィスの他にもうひとり分聞こえる。どうやら、テストゥードーは人型になったようだった。
「では、こうして殺すしかないか。残念だ。きみはよくやってくれたのだが」
(やめろ。やめてくれ)
しかしサフィラに、それを止めるすべはなかった。身体は動かない。星々の輝きですら、視界が霞んで見えない。
だからサフィラは、腕を天へと伸ばした。
サフィラにできることは、たったこれくらいしかない。
(だめだよ、クラヴィス。戻らなくちゃ)
サフィラは荒い呼吸を繰り返しながら、必死に意識を留める。指と指を絡ませ、組み、掲げた。
(マーレよ。あなたの命は、もとの形へは戻らない。でも)
ちりちりと、手首のチャームが揺れる。
「海の女神、すべての、母。偉大なる、マーレ……その長子、冥界の、あるじ。ウィータよ」
遠くでクラヴィスが泣いている。怒った声を上げて、サフィラを思って傷ついている。
(ごめんね。僕は、きみを傷つけてばかりだ)
「我が肉体……が、朽ち果てる、とき。我は、魂を、汝らへ捧げん」
必死に、魔法の知識と伝承の知識をすべて引き出す。脳裏には幼いアルスと、在りし日の両親と――ちいさかった頃のクラヴィスとの思い出が、浮かんでいた。
サフィラには、ほんの小さな勝算がある。
軋む身体で祈った。文字通り血まみれの言葉を紡ぎ、咳き込みながら、サフィラは詠唱を続ける。
クラヴィスはテストゥードーへと切りかかり、吠える。その声と剣戟の音を聞きながら、サフィラもまた必死で、神へと捧げる言葉を続けた。
「我が魂は海への贄に。我が肉体は海へと還る。幾星霜の罪、が、そこにあり」
ウォルプタース家は何度もマーレを復活させ、殺してきた家だ。
「かつての寵愛のしるしが、汝への贖いに、かなうならば。我が喜び、は、その放棄にあり」
サフィラは、その特権を手放すことに決めた。
それ以外に神へ捧げられそうなものはないし、何より、サフィラはそんなもの、いらない。
(こんなもの、滅んでしまえ。神官としての、伝承の守り人としてのウォルプタース家は、僕でしまいだ)
サフィラの手首で、血塗れの白いチャームが揺れた。
クラヴィスが憤りながら泣いている。何度もテストゥードーへ切りかかり、挑み、倒れ伏している。
それでもなお、彼は立ち上がっていた。咳き込み、荒い息を吐き、それでも。
だからサフィラも、これしきのことで、負けるわけにいかないのだ。
サフィラの祈りに応えるように、海亀の形をしたチャームが熱くなる。血が巡り、身体が火照る。
クラヴィスが雄叫びを上げて、テストゥードーへと向かっていった。
「汝が堕ちた昏迷は、最後の神官が払う。我が家門は滅び、されど汝らは永遠なり。母なる女神、始祖の蛇マーレよ。冥界の主、魔物の王ウィータよ」
これまで受け継がれてきた歴史を、思いを、サフィラはこれから贄に捧げる。
死と再生を司る名前を、サフィラは呼んだ。指をほどき、腕を大きく広げる。
これから先の運命は、どうなっても、文句はない。
だけど贅沢を言うなら、次の朝日を、クラヴィスと眺めたかった。
「我が贖いに応えるならば、契約の鎖を解きたまえ。我はサフィラ、ウォルプタースの末裔なり。因果の糸をほどき、明日の先を紡がん」
クラヴィスのうめき声がすぐそばに落ちて、彼が転がった。クラヴィスとサフィラの上に、白い影が降りる。
そしてサフィラはちょうど、呪文の最後が間に合った。
「汝は聡明なるマーレ。汝は理知あるウィータ。今、我はことわりの天秤に乗れり――!」
軽い音を立てて、海亀の形をしたチャームが割れた。
サフィラの肩口から染み出る血が、地面へとにじむ。
その他には、何も起こらない。
しばらくの沈黙の後、テストゥードーが天を見上げる。海へ視線を滑らせ、ぽつりと言った。
「……マーレは、応えなかったようだな」
テストゥードーはクラヴィスをどかし、サフィラの顔を覗き込んだ。
サフィラは息も絶え絶えに、その目を睨み返す。
「あなたに命乞いするより、ずっといい最期です」
その言葉に、テストゥードーがサフィラの首根っこを掴んだ。そのまま持ち上げ、引きずる。
「きみの魂は、マーレへと捧げる。そういう契約だ」
終わりか。サフィラの胸に、静かに暗闇が広がった。冷たくて、重たくて、安らかで、虚ろで、夜の海のようにサフィラの心を満たした。
それに抗うように、クラヴィスが立ちあがる。なおも剣を抜き、サフィラを引きずるテストゥードーへと切りかかった。
最後の力を振り絞り、獣が吠えるように叫び、剣を振り下ろす。
「哀れだな」
まるで憐憫の欠片もない声色でテストゥードーがクラヴィスを睥睨する。その刃はテストゥードーへと届き、触れた。
音も立てず、テストゥードーの腕が切断される。
サフィラの身体が地面へと転がり、クラヴィスは剣を放り出した。
大切に大切に抱きしめて、助け起こす。
「クラヴィ、ス」
咳き込むサフィラは、ふと、いつも通り息ができていることに気づく。
血を失った身体はふらつくが、魔法を振るうことはできるだろう。
(だけど、これまでみたいな魔法は、使えないだろうな)
自分の中にあった魔力の泉は、なくなっていた。きっとサフィラが先祖の罪の償いに、神官としての力を捧げた結果だろう。
それでも、サフィラは杖を構える。
「サフィラ。援護を頼む」
クラヴィスは一言だけ言い残し、剣を拾いなおして上段に構えた。サフィラは呪文を唱え、暗闇に明かりを灯す。
海の上を風が吹き、闇の中に立つ二人の肌を撫でた。
テストゥードーはといえば、二人に見向きもしない。「そうか」と、海を見つめて、ひとり呟いている。
「あなたは、そちらを選ぶのだな」
そのテストゥードーの視界の真ん中に、クラヴィスが入る。自らを誇示するように、彼は声を張り上げた。
「こちらを見ろ、テストゥードー!」
そしてクラヴィスはテストゥードーの肩から腹を袈裟切りに、剣を振り下ろした。
抵抗は、なかった。テストゥードーの大きな身体は、呆気なくクラヴィスによって切り裂かれる。大きく身体を横断する切り傷からは、光があふれだした。
やわらかな果実が潰れ、果汁があふれるように、白い光が弾ける。
咄嗟に目を庇う二人の目の前で、それは海へと溶けだしていった。荒れる水面に立つ波が、白く輝く。
幻想的な一瞬は過ぎ、やがて一筋の線へと光は収束した。
東へ一直線に白く奔り、やがて消えていった。
「……終わった?」
サフィラは膝をつき、くらむ頭を抱える。クラヴィスは、彼の身体を支えた。
「生きている。生きているんだよな」
「うん」
サフィラはクラヴィスを抱きしめ、背中をさする。波の音が、穏やかに耳に触れて、遠ざかっていく。
遠くから人の声がした。きっと、魔物と戦っていた人々がこちらへ向かっているのだろう。
「ねえ、クラヴィス」
サフィラはクラヴィスの頬を手で包み、額を合わせた。二人の視線が、至近距離で交わる。
「あんな形で言っちゃったけど、僕はきみのことが好きなんだ」
知ってる、とクラヴィスが穏やかに言った。サフィラは「うるさい」と額を軽くぶつける。鼻が擦れ合い、静かな沈黙が二人の間に満ちた。
「それで、きみが散々僕にしてきた結婚の話なんだけどさ」
「ああ。結婚するんだろ?」
「もうちょっとだけ、僕の話を聞いてくれ」
いい? と、サフィラは念を押すように言った。
「僕はしがない研究員で、薄給だし、貯金もない。いわゆる、甲斐性なしだ」
「うん」
「僕ときみは男同士だから、子どもを作れない。僕と結婚すれば、きみは子どもを残せない」
「分かっている」
「だからきみが僕と結婚することによる利点は、きみにはないんじゃないかって、今も思う」
クラヴィスが反論しようと口を開く。サフィラは、その唇に噛みついた。
驚くクラヴィスの顔を見て、サフィラは笑った。刺された腹の傷跡はまだ引きつるし、肩の傷も痛い。
それでもサフィラは、クラヴィスを捕まえて離さなかった。
「要するに僕は、こういうつまらない言い訳をしないと、きみから離れられなかったみたいだ」
「今もまだ、言い訳をするのか?」
泣き出しそうに顔を歪めて、クラヴィスが微笑む。サフィラは、もう一度唇をすり合わせた。
「しない」
きっぱり言い切るサフィラを、クラヴィスが抱きしめた。鎧が当たって痛いし二人とも血まみれで泥まみれで、最悪だ。
それでも離れたくない。ずっと一緒にいたい。
「クラヴィス。死んでも、海の底で一緒に暮らそうね」
「もちろん」
馬鹿みたいに言い合って、二人は唇を合わせた。東の空からは太陽が昇りはじめ、二人と、新しい島を照らす。
たくさんの足音が聞こえた。振り向けば、騎士たちが戸惑った顔をしつつも走ってくる。アウクシリアもいた。
救護担当の騎士が、サフィラの応急手当てをしてくれる。アウクシリアもしゃがみこみ、二人と視線を合わせた。
「お前ら、生きてるな?」
念を押すような言葉に、二人は頷いた。
「……お前らが、あのデカいシーサーペントを倒したんだよな?」
「ああ」
クラヴィスは頷く。アウクシリアは口をへの字に曲げた。畏怖の念とも喜びとも安堵とも分からない表情で、「これから大変なことになるぞ」と頭をかいた。
「お前たちは、どうしたい」
サフィラとクラヴィスは、顔を見合わせる。先に返事をしたのは、クラヴィスだった。
「俺は、この島で暮らしたい」
そうか。アウクシリアは頷く。
「じゃあ、そうするといいさ」
しばらく経って、サフィラは即席の担架に乗った。ここから船に乗り、一番近い島へと運ぶらしい。
当然のように、クラヴィスも同じ船に乗った。二人は行きよりはゆっくりと、日常へと帰っていく。
こうして、サフィラたちの旅は幕を閉じた。だからここから先は、彼らの後日談である。




