46. 二人の戦い
クラヴィスは頷き、前へと踏み出す。戦いの火ぶたが切って落とされた。
まずクラヴィスは強く足場を蹴り、走り出した。頭の一点に狙いを絞り、額を目指して空中歩行で駆けあがる。
暴れて跳ねのけようとするシーサーペントの身体に、サフィラの操る水流が絡みついた。クラヴィスを狙う尾を弾き、うねる身体を無理やり押さえる。
サフィラは海流に乗って移動し、クラヴィスの死角から来る攻撃を海水の盾で防いだ。しかしクラヴィスの運動量は、素人であるサフィラが簡単に追いつけるものではない。
それでも、なんとか息を合わせられているようだ。サフィラは額に汗をにじませつつ、クラヴィスの足場を守る。
(ちょっとキツい、かも)
クラヴィスは懸命に首を、頭を目指して走る。剣を肉へ突き立て、空中歩行で駆けあがり、しかしシーサーペントの首の一振りで弾かれる。
サフィラは波で彼を援護し、より速く、より高く走らせる。クラヴィスが再び首へと肉薄したかと思えば、マーレは大きく身体をよじって逃げた。
上がる水しぶきがサフィラへとかかり、くらりと身体が揺れる。
(クラヴィスに、死ぬ気で頑張れって言ったんだ。僕が頑張らなくてどうする!)
しかし二人で力を合わせても、マーレを倒せるかどうか。クラヴィスに頭を狙えと言ったが、現状は一進一退だ。
確実に仕留める手段が、ほしい。サフィラは海水に濡れた唇を舐める。
(イチかバチか。マーレの気を引いて、僕が囮になる)
サフィラはさらに杖を振るう。波が噴き上がり、空中で大きな水の球になった。
息を吸い込み、呪文を唱える。
「海の神々、海の精霊たちよ。母なるマーレ、その眷属たちにウォルプタース家のサフィラが希う」
当の神はといえば、理性を失って大暴れしているのだが。サフィラは杖を高く掲げ、クラヴィスを見つめた。その雄姿に目を細める。
鎧をまとい、剣を振るう姿。それは紛れもなく、英雄と呼ぶにふさわしかった。
(僕は、きみを助けたい。きみがそれを、望まなくても)
結局最後の最後まで、サフィラという人間は、やりたいことしかやれないのだ。
サフィラは、杖を振り下ろす。吠えるように、魔法を宣言した。
「落ちろ!」
水が渦巻き、噴射される。マーレの身体へと水流が突き刺さり、彼女の視線がサフィラへと向いた。
その感情のない瞳がサフィラを見据え、頭が一際高く掲げられ、そして。
牙をむいて、襲いかかった。サフィラの全身なんて簡単に丸のみできる口が、目の前へ迫る。
「来て!」
サフィラは叫び、マーレの首を押さえようと海流を操った。しかしそれは全て弾かれ、水は力なく落ちる。
サフィラ、と自分を呼ぶ声が、どこか遠くに聞こえた。
(マーレの、海水を操る権能が、本家本元に敵うわけない……!)
咄嗟に水を噴き上げ、めくらましにして逃げる。マーレは再び頭をもたげ、サフィラへと狙いを定めた。
「サフィラ!」
血を吐くようなクラヴィスの声が聞こえる。振り返ると、息の上がった汗みずくのクラヴィスが、必死にこちらへ走ってきていた。
しかしサフィラは水流を操作し、サフィラ自身を助けようと走るクラヴィスを空へと押しあげる。
「額を狙って!」
サフィラはマーレを見つめ返した。ガラス玉のような目には、敵意も恨みも怒りも見えない。
それでも彼女は、サフィラへと狙いを定める。
「くそっ……!」
クラヴィスは空中で剣を逆手に持つ。次の瞬間、マーレがサフィラに向かって飛びかかった。
サフィラは、すべての魔法を解く。無防備な状態で、マーレの目の前に立った。海流の上げるしぶきは頭を狙うクラヴィスの邪魔になる。彼の神殺しを、少しでも助けなければ。
一瞬一瞬が絵画のように、鮮明な姿で見えた。シーサーペントは牙をひらめかせ、サフィラを丸のみしようとしている。クラヴィスは空中歩行を解き、剣の切っ先を真下に向けて身体を屈めた。
そしてサフィラの眼前に牙が迫った瞬間、クラヴィスの身体が、剣が、シーサーペントへ届いた。
剣は重力によって加速し、脆い頭蓋へ簡単に突き刺さる。骨を割る鈍い音がした。
「とった!」
クラヴィスが吠える。シーサーペントは、ぴたりと動きを止めた。
その巨体は痙攣し、やがて脱力していく。
轟音を立てて、その尾が海へと落ちた。波が立ち、クラヴィスの足場も揺れる。
そして、身体は土くれに変わっていく。とぐろを巻きながら海中へ沈んでいった。それは少しずつ海面をせり上げ、海がどんどん浅くなる。
陸地が、できつつあるのだ。
「サフィラ!」
クラヴィスは満面の笑みを浮かべ、サフィラを呼んだ。剣を鞘へと納める。沈みゆく頭部から飛び降りた。そこは海面ではなく、干潟のようにぬかるんだ地面になっている。
そして、彼の返事はない。
「サフィラ?」
クラヴィスはあちこちを見渡した。どこまでも凪いでいる、黒い海面。地面は、少しずつ高くなっていく。
そうして、ぬかるみの中に倒れ伏しているサフィラを見つけた。
声にならない悲鳴を上げて、クラヴィスはサフィラの身体を起こす。その顔色は真っ青で、肩からは大量に黒い血を流していた。
「ごめん。避けきれずに、噛まれたみたい。シーサーペントには、毒が、あるんだ」
サフィラは力なく笑って、クラヴィスの腕の中でどんどん冷たくなっていく。いやだ、とクラヴィスは首を横に振った。
「お前は助かるんだ。助かって、俺と結婚するんだ」
「ううん。無理、かな」
ごめんね。サフィラが半ば口癖のように謝ると、「謝るな」とクラヴィスが首を横に振る。
クラヴィスはサフィラの傷口に顔を寄せ、毒を少しでも吸い出そうとした。「やめて」と、サフィラは彼の顔をおしのける。
「なにが、はいってるか、……どういう毒かも、わからないから、だめだ」
「お前が死にかけてるのに、だめもなにもあるか!」
クラヴィスの目に涙が光る。彼はサフィラの傷口に吸い付き、何度も血を吸いだした。顔は血まみれになり、鎧にもべったりと黒い汚れがつく。
「むだ、だよ。もう、毒が相当、回ってる」
サフィラは渾身の力を振り絞り、クラヴィスの頭を撫でた。綺麗なプラチナブロンドが、泥と血液で汚れていく。
「がんばった。がんばった、ね」
ほろり、とサフィラの頬から涙が落ちて行った。
「好きだよ。クラヴィス。しあわせに、なって」
クラヴィスに、待ち望んだ言葉がやっと与えられた。だけど首を横に振る。サフィラの身体を温めようと、必死に抱きしめるばかりだ。
「お前がいなくちゃ、俺は幸せになれない」
困ったように、サフィラは笑う。
クラヴィスはサフィラの頬を撫でた。永遠の別れの足音が、二人の前に迫っている。
サフィラが何事かを言いかけた、そのときだ。
「終わったかな」
低い男の声が響いた。は、とクラヴィスが顔を上げると、そこには白い海亀がいる。
陸へとあがり、地面を這う彼は、どこか皮肉な口調で言った。
「マーレを無事に倒したようだね」
クラヴィスはサフィラを抱きかかえ、「それがどうした」とにらみつける。
「約束は半分守られ、半分破られた。サフィラの魂はもらっていく」
テストゥードーの言葉とともに、サフィラの目がとろりと閉じていく。身体はますます脱力し、魂の灯火が少しずつ、消えていく。
サフィラは抗い、もがこうとした。その抵抗も虚しく温度はどんどん失われていく。
クラヴィスは、深く息を吸い込んだ。サフィラの額に唇を落とし、剣を手に取った。




