33. ウォルプタース家の本
父の書斎には、大量の本があった。それを読めるのは成人の十八歳からだと言って、彼は当時のサフィラへ読解方法だけを教えた。
(生きていた頃に、読ませてほしかった)
胸にじんわりと熱いわだかまりを抱えつつ、サフィラは本をぱらぱらとめくった。
そのあちこちに、サフィラの父親のものらしき筆跡で、落書きがされている。ひどい癖字で読みにくく、一目で彼のものだと分かった。
文章にも下線が引かれて、やりたい放題だ。
(貴重な資料に、なんてことを)
内心、頭を抱える。その一方で、懐かしくもあった。
(あの人、こういうところがあったからな)
厳格で、頑固な人だった。自分が正しいと思ったこと、どうしてもやりたいと思ったことは、大抵実際にやってみる。それでよく、母親から怒られていた。
ある意味サフィラたち兄弟は、二人とも父親によく似ている。
ページを撫でるようにめくっていくと、様々な伝承が載っていた。魔物退治の英雄譚や、歴代ウォルプタース家当主の逸話。さ迷える先祖の霊に、精霊と対話した者の話まで。
その中でも、ふと目につく記述があった。紙面を滑っていた視線が、ぴたりと止まる。
(海亀伝承って書いてある。海蛇伝承じゃないんだ)
ふと手を止めて、そのページを読み込んだ。そこは、父親の書き込みも特に多い。
(海亀が海蛇から生まれ、番い、子を成し、神々が生まれた)
そして二柱の最初の子である魔物に、母親である海蛇が殺される。その箇所に現代語で、父親の走り書きが残されていた。
(次巻参照? ページ番号は……)
すぐ側に置かれていた次の巻を手に取り、該当するページを開く。そこには、海亀と海蛇が絡み合った図が書かれていた。うへ、と顔をしかめる。
図のすぐ下にも、父親の落書きがあった。
(父さん。こんなものに、何書いてるんだよ)
厳格だった父親を思い出しつつ、文字を辿る。そこには短い、たった一文が記されていた。
本の記述に矛盾あり。要検討。
その文字列に、サフィラの視線が、手が、呼吸が、ぴたりと止まる。
(わざわざ本に書き込んでまで、こんなことを言うなんて)
そこにも、下線が引かれた文があった。それは伝承についての記述の矛盾を指摘している。
(父さんは、伝承を面白半分に扱う人じゃない)
サフィラは、本を次々と読み進める。
ウォルプタース家の成り立ちについて。
(かつて海の墓場にあった島に暮らしていた、神官の一族の末裔。テストゥードーとマーレの二柱を祀り、マーレ殺しを手伝った)
海蛇について。
(海の墓場に暮らし、その島に住む神官の一族に祀られていた。海亀の母にして妻。死と再生を司っている。慈愛にあふれ、子どもたちを愛している)
海亀について。
(海蛇の息子にして夫。再生を司っている。ウィータが海蛇を殺したことに激怒して、ウィータを魔物へと堕とした。海蛇殺しを手伝った神官たちも海亀の怒りに触れ、島は壊滅してしまった)
ウィータについて。
(海亀と海蛇の長子。乱暴者。冥界の主。ウォルプタース一族をそそのかして、マーレ殺しに加担させる)
ウォルプタース家の石碑を思い出した。この神官たちがウォルプタース家の先祖なのであれば、かつて屋敷にあった石碑と、大きな矛盾が発生する。
(どうして海亀は、海蛇の仇である神官たちを率いて、あの島へと連れてきたんだ)
しかも、石碑には「寵児」とまで書かれていた。本当にウォルプタースが海蛇殺しに加担しているとしたら、海亀が寵愛を与えるはずがない。テストゥードーは、実子であるウィータすら殺して魔物へと堕としたのだから。
サフィラは、唇に手を当てて考え込む。
(ウィータがマーレを殺した。テストゥードーは報復としてウィータを殺した。ここに矛盾はない。だけどウォルプタースはこの事件について、何をしたんだ……?)
夢中になってページをめくるサフィラの肩を、ぽんと誰かが叩いた。声にならない悲鳴を上げて振り向くと、驚いた顔のイーデムが立っている。
「ごめん。集中してましたか」
「いや、大丈夫です」
心臓はうるさく跳ねているが、サフィラはなんとか頷く。本を閉じて置くと、イーデムが「定時ですよ」と窓の外を指さした。
見れば、日は大分傾いている。薄暗くなった外に気づかずに、本を読みふけっていたらしい。
部屋には各々が灯した明かりであふれており、もしかしたら、昼間よりも明るいかもしれないが。
「残っていきます?」
「せっかくなので、そうしようかと……」
サフィラが申し出ようとしたところで、扉がノックされた。誰かがおざなりに返事をすると、クラヴィスが扉を開けて顔をのぞかせる。思わず朝のキスを思い出して、サフィラは顔を背けた。
「サフィラ、そろそろ帰ろう。ドミナ卿が宿を用意してくれた」
「でも、この続きが読みたくて」
未練がましく本を見つめるサフィラに、クラヴィスは淡々と言う。
「ドミナ卿が、家に招待してくださるらしい。フェキレと会うことができるが、どうする」
フェキレと。サフィラはしばらく迷う素振りを見せた後、ぱたんとページを閉じた。「なら帰ろうかな」と呟く。本を置き、イーデムを振り返った。
「すみません。やっぱり、もう帰らせていただきます。また明日、ここに来ればいいですか?」
「はい。始業時間は……」
簡単な説明を受ける。最後に関係者であることを示す木札をもらったかと思えば、クラヴィスがすぐにサフィラの手を引っ張った。
サフィラはそれをふりほどけずに、部屋の面々にぺこりと会釈をする。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
そして、手を引かれるままに部屋を出る。クラヴィスはいたっていつも通りで、だけど繋いだ手だけは離されない。
「ねえ、クラヴィス」
気まずくて名前を呼ぶと、彼は振り返りもせず「なんだ」と返事をした。
「手、離しても大丈夫だよ」
「いやだ」
駄々をこねるように言って、クラヴィスは強くサフィラの手を握った。その体温の高さに、サフィラは少し怯む。
クラヴィスは「今朝のことだが」と、ぽつりと呟いた。
「なかったことにするなよ」
ぎく、と身体を強張らせたサフィラを、クラヴィスがようやく振り返る。その目元はほんのりと赤く、耳に至っては真っ赤だ。
「いいな」
なんと答えるのが正解か分からず、黙り込んだ。クラヴィスはそのままサフィラの手を引いて騎士団の建物を出て、街中を歩く。
日が暮れた夕飯時の街は、おいしそうな匂いがあちこちに漂っていた。そこでやっと、空腹だったことに気づく。
市場に差し掛かると、屋台があちこちに出ていた。あちこちで、仕事帰りの人々が立ち食いをしている。ますますおいしそうな匂いが濃くなった。
「食事も用意してくださるそうだが、何か食べていくか」
クラヴィスが言うので、サフィラは「いいよ」と首を横に振った。クラヴィスは「残念だ」となんでもないことのように言う。
「一緒に立ち食いして、デートしたかった」
「クラヴィス……」
腹の底を持ち上げられて愛撫されるような、落ち着かなさと恐ろしさと、ときめき。サフィラが手を離そうとすると、やはり強い力で掴まれて引き戻される。
「行くぞ」
クラヴィスは、人混みを掻き分けて迷いなく進んでいく。
(昔とは、逆になっちゃったな)
サフィラは、すっかり大きくなったその広い背中を見上げた。がっしりとしていて、鍛えられていることが服の上からでも分かる。
(……僕がいなくなっても、クラヴィスの周りにはたくさんの人がいる。でも)
クラヴィスのはじめてのキスは、きっとサフィラがもらった。クラヴィスへ憧れを向ける女性たちに、呼吸が強張るほどの優越感がある。でも。
(僕がいなくなったら、クラヴィスは、僕以外の誰かにキスするんだ)
生まれてはじめて感じるどろどろとした感情が、サフィラの胸中を満たす。嫉妬のような、悲しさのような、寂しさのような。
サフィラは、今を惜しんでいた。このままでいたいと思った。
その薄い胸には確かに、未練が芽生えている。




