30. 密会
クラヴィスが海へと飛び込むと、ケートスが足元からせりあがるように現れた。その巨体に向かってクラヴィスは泳ぎ、背びれへとつかまる。
引きずられるようにして、クラヴィスは海の底へと向かった。長く息を止めて耐え、やがて、ケートスは海中洞窟へと潜っていく。
身体が限界を超えかけたとき、ケートスの背が空気に触れた。クラヴィスは必死に顔を上げて息を吸い、気管に水が入って咳き込む。その姿を笑う者がいた。
「無様だな、勇者殿」
それは優美な男の姿をして、洞窟の奥に腰かけていた。黒く豊かな長い髪が地面へと垂れ、裸体に毛深い獣の皮をかぶっているだけの、扇情的な姿。
すべての魔物の長を、クラヴィスはにらみつける。
「ウィータ。約束通り、俺は来たぞ」
「お前、時間通りに待ち合わせに来ただけで褒められたいタチか? それより、鎧と剣を渡してやった礼が先だ」
クラヴィスは頭を振って、髪の毛から水滴を飛ばした。
「恩に着る」
「もっとありがたがれ」
クラヴィスは文句を無視して、どっかりと地面に座った。
「真夜中に来るここへの迎えに乗って、お前のもとへ向かう。そうすれば、テストゥードーからサフィラを奪い返す方法を教えてやる。約束したのはお前だ」
はいはい、とウィータは肩をすくめる。ひたひたと濡れた足音を立てつつクラヴィスに近寄り、興味深そうにのぞき込んだ。
「魚の目を借りてずっと観察していたが、これが惚れた男のために命を張る大バカ者の顔か。間近でもよく見ておこう」
「いいツラをしているだろう。サフィラもこの顔は好きらしい」
歯を剥いて笑うクラヴィスに、ウィータはひょいと肩をすくめた。まあいい、と彼はクラヴィスの正面にあぐらをかく。
「しかし、いいのか? テストゥードーは曲がりなりにも最高神だぞ。逆らえばどうなるか」
「関係ない。あいつはサフィラを俺から奪おうとしている。だから、奪い返したい」
熱烈だなぁ、とからかうようにウィータは言った。だが、と首をぐるんと左へ傾ける。
「端的に言って、今のままでお前の目的を達成するのは、絶対無理だ」
「は」
クラヴィスの顔から、表情が抜け落ちる。「ただし」と、ウィータはにんまりと笑う。
「自己矛盾をつけ。神は嘘をつき、偽ることもある。それが神の傲慢であり、弱点だ」
「もっと分かりやすく言え。お前が思っているほど、俺は頭がよくない」
噛みつくクラヴィスに、ウィータは「はいはい」と呆れたように肩を下げた。
「本題に入ろう。お前に、テストゥードー殺しを頼みたい。それは、お前の目的にも通じる」
神殺し。クラヴィスは拳を握って、膝を叩いた。瞳が動揺で揺れるが、それをウィータはひたと見据えている。
「詳しく説明しろ。お前はどうしてテストゥードーを殺したい。どうすればテストゥードーを殺せる」
ああ、とウィータは頷いた。静かに足を伸ばし、つま先を動かす。
「俺はテストゥードーが憎い」
当たり前のことのように、ウィータはテストゥードーへの呪詛を吐いた。
「あいつのせいで、俺は地上を追われた。だから、あいつに一泡吹かせてやりたい。母さんのためにも」
「それがお前の動機か」
クラヴィスが言えば、ウィータは「ああ」と顔を背けつつ頷いた。
「そうだ。母さんのためだ。俺は……あいつが、母さんを踏みにじるのを、もう見たくない」
ぶつぶつ呟きつつ、ウィータは視線だけをクラヴィスへ向けた。
「話しがそれた。これから、お前に殺し方を教える」
クラヴィスが身構えると、「簡単なことだ」とウィータは言った。
「神は実体を持たない。神とは自然であり、論理だ」
こつこつと、指関節で自分のこめかみを叩いた。黒い瞳がまるで空虚な穴のように、クラヴィスの瞳を覗き見る。
「ときに肉体を持つが、それに意味はない。借りているだけ、もしくは仮初。だが、『死ぬ』ということわりの持つ意味から、論理である俺たちは逃れられない」
魔物の神は、ぐにゃりとその身体を横たえる。それはみるみるうちにケートスへと代わり、再び青年の姿へと戻った。
「……殺せば、どうなる」
異様な光景にはあえて触れずにクラヴィスが尋ねると、「変質する」とウィータはこともなげに言った。
「根幹は変わらないが、死因になった事柄によって、二度と戻れない変化が起こる」
だからこそ、とウィータは続けた。
「殺し方によっては――お前の思い人とあのクソ野郎の約束事を、破棄させることもできるだろう」
クラヴィスは眉をひそめた。「お前にも分かるように説明してやる」と、ウィータはあぐらをかく。
「俺たちは論理だ。ことわりだ。存在を順序だって言葉にできて、その存在が正しいからこそ人の信心を得て、神でいられる」
拳が振り上げられ、揺れる。
「逆もそうだ。順序だって言葉にできず、正しくなければ、神とは言えない」
「もっと具体的に言え。話が抽象的すぎるんだ」
顔をしかめると、「矛盾を突け」と、拳を解いてウィータは言った。人差し指で、クラヴィスの胸を叩く。
「奴はお前たちを騙している。騙すなんて卑劣な行為をする存在が、勇者であるお前の思い人を奪おうなどと、許されるはずがない。ましてや最高神として、説教を垂れるなどと」
クラヴィスは、じっとウィータを見据えた。黒い瞳は暗く、どこまでも底が見えない。
「ウィータ。教えてくれ」
「ああ。俺が教えられることなら、なんでも教えてやろう」
その言葉に、クラヴィスは無意識に詰めていた息を緩めた。
「お前は一度死んだことがあるのか」
「あるさ。テストゥードーに殺された」
「どうして殺された」
ウィータは、くしゃりと顔を歪める。表情には怒りと悔しさが滲んで、赤い唇を噛んだ。
「言えない」
そしてふらりと身体を揺らし、「ただ言えるのは」とうつろに宙を見つめた。
「あれ以来、俺に理性はなくなった。知恵は回っても頭が回らない。おかげで嘘もつけなくなった」
「つまり、お前の死による変質はそれだったのか」
ただただ観察するクラヴィスに、「そうだ」とウィータは頭を揺らしながら同意する。
「ダメだな。そろそろ時間だ」
うう、と、獣のようにウィータがうなる。
「俺のなけなしの自制心とやらも限界だ。また、遠くからお前たちを見るだけになる」
クラヴィスの背後で、水が噴き上がる音が聞こえた。振り返れば、ケートスが陸地に前脚を乗せて寝そべっている。
「乗って帰れ。また俺が思い出したら、話そう」
その言葉通りに、クラヴィスは立ち上がった。ウィータは酩酊したように地面へ寝そべり、ひらひらと手を振る。
「また会おう、勇者殿。俺は、お前のことが気に入ったんだ」
「それは何より」
クラヴィスはケートスにしがみつき、息を止める。そのまま獣は海へと戻り、クラヴィスを運んでいった。
あの暗い洞窟を再び通り、海岸へとあがる。再び宿屋へと戻ると、月はだいぶ傾いていた。
どうにも寂しい。サフィラの寝顔が見たくなって、だけどクラヴィスは彼の部屋の鍵を持っていない。
(サフィラは、すぐ隠しごとをする)
彼がクラヴィスにとってあまりよくない秘密を抱えていることくらい、分かっている。なのに、決定的なことには決して踏み込ませてもらえない。
(俺の近くにいてほしい。サフィラに、遠くへ行ってほしくない)
虚弱だった幼いクラヴィスを連れ出してくれた。騎士になりたいと言えば応援してくれた。両親が事故死した後、幼い弟を抱えて必死で働いた。
その背中に、クラヴィスの手で、何か報いたいのだ。
(俺の手で幸せになってほしい)
自分勝手で、きっと望まれていない欲望だ。サフィラの部屋の前を通るとき、すこしだけ胸が跳ねる。
ばれやしないかという不安と、起き出してきてくれないかという期待。
(馬鹿げてる)
クラヴィスは頭を振って、雑念を振り払った。自分の部屋へと戻り、手早く寝る支度を整える。
(結婚したら、同じ寝室で眠ってもいいんだよな)
そうしたら、こんなに心細い夜もないのだろうか。そう思って寝返りを打つ。
根っこのところで、クラヴィスはどうしようもない寂しがりだった。




