26. 気まずい二人
サフィラが部屋に戻ると、ベッドに座った仏頂面のクラヴィスと目が合った。彼は既に入浴を済ませた後のようで、髪の毛がしっとりと湿っている。
「……ただいま」
後ろ手に扉を閉めると、「おかえり」と不機嫌な声が返ってくる。
「遅かったな」
「まあ、いろいろあって」
誤魔化すサフィラに、ふんとクラヴィスが鼻を鳴らした。さすがのサフィラも、ここまでクラヴィスの機嫌を損ねたのははじめてだ。
「ねえ、クラヴィス」
サフィラがおずおずと近寄ろうとすると、彼は真っすぐ扉を指さした。出ていけ、ということだろうか。サフィラが扉とクラヴィスを交互に見ると、「湯を浴びてこい」と彼は言った。
「海水まみれのまま寝るな。宿にも迷惑がかかる」
「もっともな意見だ」
サフィラは頷く。着替えを持って出ようとすれば、なぜかクラヴィスが荷物をまとめはじめた。戸惑うサフィラをよそに、入浴道具一式をまとめたクラヴィスが立ちあがる。
「行くぞ。俺が身体を洗ってやる」
その静かながらも圧倒的な威圧感に、サフィラは思わず無言になった。彼は強い力でサフィラの腕を掴み、宿の近くにある大浴場に向かってずんずんと歩き出す。
「ま、待ってってば」
サフィラは必死でついていく。あっという間に浴場に到着した。料金を支払い、脱衣所に入る。腕から手を離したかと思えば、クラヴィスはサフィラの服に手をかけた。
「脱がせる」
「自分で脱ぐってば」
サフィラが拒むように彼の手を掴むと、ぴたりと動きが止まる。そして、じっとサフィラを見つめるのだ。
その抗議するような視線に、サフィラはため息をつく。
「……いいよ。脱がせて」
クラヴィスの手が、丁重にサフィラの衣服を脱がせていく。
シャツのボタンを外す。ベルトを外す。椅子に座らせてズボンを抜き、シャツを腕から引き抜いた。その手つきはひどく優しい。
下着まで脱がせたがったので、サフィラはされるがままになってやった。そうして全裸になったサフィラの身体を、隅々までクラヴィスは検分した。
「他に、怪我はないな」
色欲のない目で見られると、かえって意識してしまいそうだ。サフィラはクラヴィスから目を逸らして、「ないよ」とぶっきらぼうに言った。
「なら、いい」
クラヴィスも無造作に服を脱ぎ、サフィラを連れて浴場へと入った。夜遅いこともあって、客はちらほらとしかいない。
クラヴィスは丁重に石鹸を泡立てて、サフィラの肌に触れた。掌で、じかに身体を洗う。サフィラの冷えた身体を、クラヴィスの厚い掌が滑っていった。
きもちいい。サフィラはうっとりと目を細め、されるがままになる。こんな距離感はおかしい、と警鐘を鳴らす理性は、彼の手で蕩かされていった。
「気持ちよさそうだ」
クラヴィスの低い声が、耳元へと流し込まれる。大切に、壊れ物を扱うように、彼はサフィラの身体に触れた。足の指一本いっぽんまで丁寧に洗って、肩やふくらはぎに指を這わせる。凝り固まったところをほぐすように、長い指が身体を揉んだ。
(そんなことまで、しなくていいのに)
すっかりふにゃふにゃになったサフィラに湯をかぶせ、泡を落として仕上げである。
「あり、がとう」
先ほどまで気まずかったのが嘘のように、サフィラはすっかり気持ちが緩んでいた。クラヴィスはサフィラの手を引き、浴槽へと誘う。
湯に浸かるのもいいな、とサフィラは呑気に考えた。手を引かれるまま浴槽に入っても、クラヴィスはその手を離さない。
「人目がなかったら抱きしめてた」
ぽつりと、引く声でクラヴィスが呟く。「人目が無くてもしないでよ」と、眠たいサフィラはくわんくわんと首を横に振った。
「うん」
クラヴィスはじっとサフィラを見つめる。その目が恨みがましくすがめられ、「酷いぞ」となじってきた。サフィラはそれには反論せず、「ごめんね」と謝る。顎が湯につくくらい、身体を浴槽へ沈めた。
「ごめん」
その言葉に、クラヴィスはサフィラの手を引いて立ち上がった。サフィラはされるがままに湯から上がり、クラヴィスに身体を拭かれ、宿へと戻る。
部屋に戻ると、クラヴィスはきつくサフィラを抱きしめた。あまりにも強く抱きしめるので、サフィラが抱きしめ返せないくらいだった。
「くるしい」
サフィラが呻くと、「俺の方が苦しい」とクラヴィスは恨み言を呟く。
「ごめんね」
「謝らなくていい」
クラヴィスは、湿った声で言う。クラヴィス、とサフィラが呼んでも、彼はいやいやと首を横に振った。
サフィラは、途方に暮れてしまう。こんなことでは、クラヴィスの前からいなくなれない。
彼の隣から、離れがたくなってしまう。
「俺は絶対、お前の思い通りにならない」
唸るように、クラヴィスは言った。サフィラが視線だけで見上げると、彼は歯を食いしばってサフィラをにらむ。
「絶対に、俺はお前と結婚する。お前が俺を勇者にするというなら、お前は勇者の夫になれ。俺と、新しい島で一緒に暮らすんだ」
だから、と肩に彼の目元がうずめられる。熱い吐息が鎖骨のあたりにかかって、捕食されているようだった。
「置いていかないでくれ」
きっと、彼の本音なのだろう。サフィラはやっとクラヴィスの背中に腕を回そうとして、やめた。だらりと、腕が身体の側へと垂れる。
「置いていくもなにも、……僕なんかに執着しても、何もいいことないよ」
サフィラの言葉に、クラヴィスは何も答えなかった。ただサフィラを連れてベッドへと入り、抱きしめる。
「一緒に寝るぞ」
こんな時でも、クラヴィスはサフィラを拒絶しないらしい。サフィラは苦しくなって、そっと離れようと腕を突っ張った。かえって腕の力が強くなり、胸元へと頭を押し付けられる。彼の脈拍がじっとりと耳に貼り付いた。いつもより、鼓動がはやい。
「……きみは、本当に優しい子だね」
「サフィラにだけだ」
ううん、とサフィラは首を横に振る。石鹸のにおいがした。それから、クラヴィス自身の、落ち着くにおい。
力が抜けて、とろとろと瞼が重たくなってくる。この晩が永遠になればいいのに。サフィラは沈みゆく意識の中で、ぼんやりと思った。
「サフィラ」
クラヴィスが、甘く掠れた声で呼ぶ。クラヴィスは、サフィラのことが好きだ。サフィラも、クラヴィスのことが好きだ。
「クラヴィス、しあわせになって」
サフィラはぽつりと呟く。
「ぼくなんかで、人生を、むだにしちゃ、ダメだ」
目を瞑ると、抱きしめる力が強くなった。頬に濡れた熱いものが押し付けられた感触があり、それに頬ずりをする。ますます強く抱きしめられて、サフィラは途方に暮れてしまった。
「なかないで……」
頭を撫でてやろうとしても、指先ひとつ動かない。サフィラはそのまま、眠りへと落ちていった。




