25. サフィラの夢
クラヴィスは立ち上がり、宿へ戻ろうとサフィラの手を引いた。その手を離して、サフィラは微笑む。
「ごめん。僕、ちょっとテストゥードーと話したいことがあるんだ。先に行ってて」
「何を話すんだ」
「ちょっと、僕の信仰にまつわること。だから二人きりにしてほしいんだ」
サフィラの声は、甘えるような響きを孕んでいた。その甘えはクラヴィスではなく、テストゥードーへと向いている。
クラヴィスは深く息を吐いて、「どうしてだ」と低い声で尋ねた。
「俺に隠すようなことでもあるのか」
サフィラは、困ったように微笑んだ。それがサフィラの答えだと悟ったクラヴィスは、顔を背けて吐き捨てる。
「勝手にしろ」
踵を返し、振り向くことなく立ち去る。サフィラはその背中を見送ってから、岸辺へ座り込んだ。足を海へ浸し、ゆっくりと水をかきまぜるように揺らす。
「愛しの彼はいいのか?」
「ええ。いいんです」
テストゥードーは「そうか」と頷き、首を伸ばしてサフィラを見上げる。
「ありがとう。きみが贄となることを選んでくれたから、私はこうして肉体を得られた。それにきっと、きみという供がつくことを、マーレも喜ぶだろう」
「……僕自身が、願ったことですから」
サフィラはわずかに声を震えさせて、手首をさする。海亀のチャームがちりりと揺れた。
「あなたが海へ出るための肉体を、僕の肉体と魂を代償に作り上げる。そしてこの旅が終われば、僕はマーレの眷属になって、海へと還る」
淡々と、感情を抑えてサフィラは言った。「未練なんかありません」と、ゆっくり俯く。
十六のとき、島と家を手放した。そのすぐに、両親も亡くした。ひとりで弟を養ってきたこの八年間、何度神に祈っただろう。
これがその、報いなのかもしれない。
「ずっと、願っていたんです。海の向こうへ行けたら、と」
「これから先、いくらでも行けるさ。海の眷属となればね」
励ますようにテストゥードーが言う。サフィラはそれに、薄く微笑んでみせた。
テストゥードーは、ぱちりと瞬きをする。
「彼女の孤独を、さみしさをともにしてくれるきみに、感謝を」
その言葉を聞き終えて、しばらく。サフィラはおもむろに顔をあげて、「もう一つ」と呟いた。しんと静まり返った夜の海を、サフィラの声が駆ける。
「僕は、クラヴィスを英雄にしたいんです」
テストゥードーは、微笑ましいものを見る目でサフィラを見つめた。サフィラは拙く、クラヴィスへの気持ちを吐露していく。
「彼は次男で、ミュートロギアの土地を継げない。だから女の人と結婚するのも難しい。島を持てば、それが全部変わる」
「いやいや。今のまま、きみと結婚したって悪くないんじゃないか?」
ひょいとテストゥードーが言えば、サフィラは首を横に振った。
「僕みたいな破滅願望持ちと結婚したって、クラヴィスは幸せになれないんですよ」
今にも泣きだしそうな顔で、サフィラは笑う。
「僕じゃ子どもを産めないし、これから先に遺していけるものもない。クラヴィスの一生の足跡がどこにも残らないなんて、さみしいんです」
少し息を吸い込む。ほろりと、温かい水滴が頬を伝っていった。涙を掌で拭いながら、サフィラは声を震えさせた。
「愛しているんです。愛しているから、遺ってほしい。僕のことなんか気にしないで、幸せになってほしい」
テストゥードーは、「素敵な願いだ」と頷いた。下瞼が持ち上がり、笑みのように目がたわめられる。
「献身というものは、美しい」
サフィラは「違います」と、むずがる子どものように首を横に振った。テストゥードーは驚いたように首を引っ込める。
ちいさく首を傾け、目を瞑ってサフィラは言った。
「自分勝手、って言うんです。あの子は優しいから、こんなことを聞いたら、怒って、泣いて、悲しんで、止めるでしょう」
「でもきみは、そうするんだね」
はい、とサフィラは頷く。細い脚が、ぎこちない動きでゆっくりと海の中をかきまぜた。目を開けて星々を眺め、祈るように口にした。
「僕がしたいから、そうするんです。僕は、自分のしたいようにしか生きられない、傲慢な生き物だから。こうやって、クラヴィスの幸せを願うんです」
テストゥードーは慰めるでもなく、ただそこに浮かんでいた。サフィラは指を組み、テストゥードーへと祈った。
懺悔するように、頭を深く下げる。指を組んだ手を、星空へと掲げた。
「大いなるテストゥードーよ、始祖の蛇から生まれた泳ぐ太陽よ……」
その祈りに、テストゥードーはゆったりとひれを動かした。神の威厳を示すように、大きな弧を描いて旋回する。サフィラは薄っすらと目を開けてその軌跡を追い、「どうか」と願う。
「僕を海の向こうへ連れていってください。クラヴィスを、幸せにしてください」
きっとこれだけしか、サフィラにできることはないのだから。
テストゥードーは、音もなく海へと潜っていった。サフィラの足元をくぐり、東へと消えていく。
遠くで、魚の跳ねる音がした。サフィラはそちらを見やるが、何の影も形もない。
「……気のせいかな」
サフィラは海から身体を引き上げ、大きく伸びをした。もうこのサンダルはダメだな、と裸足になってぺたぺたと歩く。
ふと立ち止まって、海の向こうを見る。二人が暮らしていた島のある、東の方だ。
「ごめんね。クラヴィス」
誰にも届くはずのない謝罪を呟いて、サフィラは二人の泊まる部屋へと歩き出した。




