24. テストゥードーと勇者クラヴィス
テストゥードーがさらに続けようとすると、サフィラが呻いた。クラヴィスが「サフィラ」と彼の身体を抱え直すと、彼はゆっくりと瞼を開く。
「クラヴィス」
けほ、と小さく咳き込みつつ、サフィラは自ら身体を起こした。そして真っ白な海亀を見て、驚きもせずにひざまずいた。そのまま手を組み、祈りを捧げる。クラヴィスは、その光景を茫然と眺めていた。
テストゥードーは満足げに目を細め、「いい子だ」と頷く。
「きみが、私を呼び出したんだろう。ウォルプタース家の末裔に呼び出されるとは、私も嬉しいよ」
そう言って、テストゥードーはゆったりとひれを動かしてサフィラの方へと泳ぐ。サフィラは指を解いて海へと身を乗り出し、テストゥードーの甲羅に触れた。
「夢の中で、あらかたのことはお聞きしました」
海亀の嘴が、笑うように小刻みに震えた。クラヴィスは、「俺にも説明してくれ」とサフィラの腰を抱いて引き寄せる。濡れた衣服が身体に貼り付いて、重くて、冷たかった。少しでも体温を分け与えるように、身体を密着させる。
「嫉妬深い男だ」
からかうように言って、テストゥードーは語り始める。
「私たちの最初の子、ウィータが、マーレを殺した。それ以来、マーレは眠りについている」
クラヴィスの脳裏に、人形劇がよぎる。テストゥードーは沈んだ声で続けた。
「あの子がなぜマーレを殺したかは分からない。たしかに乱暴者で手を焼いていたものの、あれなりに母を慕っていたはずなんだが」
サフィラはじっとクラヴィスの腕の中に納まり、テストゥードーを見つめている。
「それ以来、私は夜、海の中へ沈むようになった。毎晩、海底に眠る彼女へ会うためにね」
離れたところで、ちゃぷ、と水の跳ねる音がした。
「それでは、どうしてあなたはこうして海亀となっている。なぜ俺たちに向かって語り掛けている」
耐えきれず、クラヴィスは問いかけた。テストゥードーの下瞼がせりあがり、つるりとした瞳が月明かりを反射する。
「結論から言えば、マーレは死の眠りから目覚めかけている。つまり、蘇ろうとしているのだ」
テストゥードーは、ゆっくり旋回をはじめた。ちいさな円を描きながら泳ぎ、そのかたちの波紋が立つ。
「そして、彼女は正気を失っている。あの大きな身体が暴れれば、この島々はひとたまりもないだろう」
ひたりと泳ぐのをやめて、テストゥードーは二人を見上げた。サフィラが少し身じろぎをして、テストゥードーへと手を伸ばす。その指先が、テストゥードーの頬に触れた。ええ、とサフィラはちいさく頷く。
「そのために、あなたは海へ入り、肉体を得ることを望んだ。泳ぐ太陽、我らが父なる神。お会いできて光栄です」
静かな声に、クラヴィスの胸が苦しくなった。サフィラはいつか自分を置いていくだろう、というぼんやりとした不安が、現実になりつつあるような。じりじりと、重苦しい感情が胸を焼いた。
「サフィラ」
彼の腰に手を回し、強く引き寄せた。それでも彼はクラヴィスから離れようとするように、腕を伸ばす。
テストゥードーは「楽にしなさい」と、サフィラへ優しく語り掛けた。
「きみのように、まだ私のことを熱心に信仰してくれる者が残っているとは。嬉しいよ」
そして、海亀の無機質な、感情の読み取れない瞳がクラヴィスへと向く。
「ここからが本題だ、クラヴィス=ミュートロギア」
海亀はクラヴィスの足元へ泳ぎ、首を伸ばして語り掛ける。それは夢の中で聞くように、現実感のない言葉だった。
「私は、きみを今代の勇者として選んだ。きみにはシーサーペントの撃退をしてもらう」
つまりだ、と彼はまとめる。
「マーレを再び眠らせてほしいんだ。報酬は、彼女の死体からできあがる、新しい島がひとつ」
勇者。クラヴィスが言葉を失っていると、テストゥードーは「まあ、順繰りに話そう」と前ひれでゆったり水をかく。
「私はきみを買っている。一目見たときから、きみを勇者にしようと思った」
夜の海に、ぽっかりと太陽が浮かぶ。その輝かんばかりの瞳が、クラヴィスを真正面からとらえた。
「きみの魔力量、身体能力、剣技、そして精神。何一つとっても、英雄としてふさわしい」
「何を、勝手に」
クラヴィスが戸惑って視線をそらすと、「クラヴィス」と、サフィラの手がその頬へと伸びた。ぴたりと濡れた皮膚同士が吸い付き、離れない。
「僕も、きみが勇者にふさわしいと思う。きみは、始祖の蛇を倒して、英雄になるべき人だ」
「サフィラ」
何を言われてもちいさな手の冷たさばかりが、クラヴィスの心を占拠した。サフィラは伏し目がちに微笑み、「だって、きみは強い」と、甘く優しい声で言った。
「きみなら、きっとやってのけてみせる。きみ以上に、世界を救うのにふさわしい人はいない」
「買いかぶりすぎだ。俺はそんな器じゃない」
お前のほうが、よほど。そう続けようとしたクラヴィスをよそに、サフィラは目を輝かせて続ける。
「それに、僕はきみを助ける力をもらったんだ」
「なにを」
ひょい、とサフィラの指先が宙を切る。すると、くるくると水が螺旋を描きながら空中へとあがってきた。それは大きな水の球になり、サフィラはそれを指先ひとつで霧散させる。
「水流操作を、詠唱なしでできるようになった。それに、これまでよりもっともっと大きな規模で、海水を操れる」
サフィラの瞳が、ぱちりとクラヴィスを捉えた。熱っぽく潤んだその瞳が、ゆっくりと瞼の向こうに隠れる。うっとりと目を閉じて、頭をさげ、恭順するように言った。
「僕は、きみを助けるよ。きみが、どこまでも行けるように」
「サフィラ。俺は……」
違う、と叫びたかった。クラヴィスはどこにも行きたくない。サフィラにも、どこへも行ってほしくない。
だけど、あまりにもサフィラが、幸せそうだから。クラヴィスの手を取って、これが正解だと言わんばかりに微笑んでいるから、クラヴィスは何も言えなくなった。
「頼んだよ。若者たち」
テストゥードーは、すべてを包み込むような優しい声音で言う。クラヴィスはサフィラを抱きしめ、海亀をにらんだ。
「……いいだろう。その話、受けてやる」
クラヴィスは、腹を決めた。これがサフィラの正解だと言うのなら、クラヴィスもまた自身のやり方で正解を示す。それを、サフィラへと正面から叩きつけてやるのだ。
さすがのクラヴィスも、心底腹が立った。
テストゥードーはひれで水をかき、静かに波紋を立てる。
「勇者の武器は、海の墓場の底にある。まずはそこへと向かうといい」
クラヴィスは頷き、サフィラを温めるように身体を丸めた。ひやりと冷えた濡れた肌へ、自分のいのちを分け与えるように。
三人の思惑をよそに、夜はどんどん深まっていく。闇の中に波の音が響き、再びどこかで魚の跳ねる音がした。




