第二章:光と影の再会 1. 香港の聖域(サンクチュアリ)
"Sometimes, reaching out and taking someone's hand is the beginning of a journey. At other times, it is allowing another to take yours."
(時に、手を差し伸べ、誰かの手を取ることが、旅の始まりとなる。またある時には、誰かが、あなたの手を取るのを、許すこと、それが、旅の始まりとなるのだ)
– Vera Nazarian/ベラ・ナザリアン
1. 香港の聖域
香港の夜は、決して眠らない。だが、太平山の中腹にひっそりと佇む、このコロニアル様式の白亜の邸宅だけは、麓の街の喧騒から完全に隔絶され、静寂という名の、分厚い結界に守られているかのようだった。
ここは、林祖苑の、私的な聖域。彼女が、その財力と、裏社会への影響力を惜しげもなく注ぎ込み、作り上げた、誰にも知られていないセーフハウス。鉄壁のセキュリティシステムと、忠実な使用人たちに守られたこの場所は、今、一人の、特別な客人を、その翼の下に匿っていた。
リビングルームの、高い天井から吊るされたシャンデリアが、柔らかな光を投げかける。その光の中で、ソファに深く身を沈めた一人の女性が、窓の外に広がる香港の夜景を、ぼんやりと眺めていた。
彼女の名前は、紅。
かつて、上海の、法輪功学習者の中心的存在として、その、揺るぎない信念と、慈愛に満ちた人柄で、多くの人々から慕われていた女性。しかし、国家という名の、巨大な暴力装置によって、その尊厳を踏みにじられ、数年間を、地獄の、そのまた底のような、収容所で、過ごしてきた。
青木義成が、その命と、魂のすべてを賭して、救い出した、母の盟友。
今の彼女は、衰弱しきっていた。長い、過酷な拷問は、彼女の、その、しなやかだった肉体を、痩せ細らせ、その、輝くようだった黒髪からは、色が失われていた。だが、彼女の、その瞳の奥の光だけは、決して、消えてはいなかった。それは、絶望の淵を、覗き込み、それでもなお、人間の、善性を、信じることを、やめなかった者だけが、持つことのできる、静かで、そして、あまりにも、深い光だった。
「…紅さん。お薬の時間ですわ」
祖苑が、銀のトレイに乗せた、水差しと、薬を、彼女の前に、そっと置いた。その声は、ビジネスの場で見せる、氷のような冷たさとは、まったく違う、どこまでも、優しく、そして、敬意に満ちた、響きを持っていた。
この一ヶ月、祖苑は、つきっきりで、紅の、看病をしていた。最高の、医師団を、秘密裏に、この邸宅に呼び寄せ、最新の、医療設備を整え、彼女の、心身の、回復に、全力を、注いでいたのだ。
それは、義成への、義理や、ビジネス上の、利害関係からでは、なかった。
祖苑は、紅という、女性の中に、自分自身が、失ってしまった、何か、純粋で、気高いものを、見ていた。そして、その、か細い、灯火を、守ることこそが、闇の世界で、生きる、自分に、課せられた、贖罪であるかのように、感じていた。
「…ありがとう、祖苑さん。いつも、すまないね」
紅は、弱々しく、しかし、凛とした声で、礼を言った。
その時、玄関のチャイムが、短く、鳴った。
祖苑は、使用人に、目配せをすると、静かに、立ち上がった。
「…彼が、来たようだわ」
ドアが、開かれ、そこに、一人の男が、立っていた。
青木義成。
祖苑は、彼と、視線を交わした。言葉は、なかった。だが、その視線だけで、二人は、互いの、この一ヶ月の、孤独な戦いを、理解し、そして、労い合った。
義成は、上海での、地獄のような、療養を終え、ここへ、飛んできたのだ。その顔には、まだ、病的な、青白さが、残っている。だが、彼の、その瞳は、もはや、奈落の底の、虚無を、映してはいなかった。あるのは、次なる、戦いに向かう、兵士の、冷たい、決意だけだった。
義成は、ゆっくりと、リビングへと、足を踏み入れた。
そして、彼は、初めて、紅の、姿を、目にした。
ソファに座る、その、痩せ細った、女性。
母が、涙ながらに、語った、物語の、中の、ヒロイン。
自分が、あの、暗黒の、独房で、拷問に、耐え抜くための、唯一の、理由となった、存在。
彼は、彼女の前に、進み出ると、中国の、最も、丁寧な、礼法に従い、深く、深く、その身を、屈めた。
「…紅、おば様。初めまして。母、京海の、息子の、義成です」
その、静かで、しかし、心の、奥底まで、響き渡る、声。
紅は、ゆっくりと、顔を上げた。そして、目の前の、この、若者の、顔を、じっと、見つめた。
その、眉の形。その、鼻筋。そして、何よりも、その、瞳の奥に宿る、深い、悲しみの色。
そこに、彼女は、若き日の、盟友、京海の、面影を、そして、その夫となった、あの、数奇な運命を生きた、日本人、楡生の、面影を、はっきりと、見て取った。
「…ああ…」
紅の、目から、大粒の、涙が、溢れ出した。「あなた、が…義成、君、なのね…。こんなに、立派に、なって…。京海は、本当に、幸せ者だ…」
彼女は、震える手で、義成の、手を、握った。
その、あまりにも、か細く、そして、冷たい、手の感触に、義成は、胸が、締め付けられるのを、覚えた。
この、手で、母は、かつて、友情を、誓い合ったのだ。
この、手で、彼女は、理不尽な、暴力に、耐え抜いたのだ。
彼は、その手を、両手で、包み込むように、握り返した。
「おば様。もう、大丈夫です。あなたは、もう、自由です」
その言葉は、彼が、自分自身に、言い聞かせるための、誓いの、言葉でもあった。
その夜、三人は、静かな、夕食の、テーブルを、囲んだ。
祖苑が、特別に、腕を振るった、体に、優しい、薬膳スープと、点心。
三人の間に、会話は、少なかった。だが、そこには、どんな、言葉よりも、雄弁な、魂の、交流が、あった。
食事が、終わると、祖苑は、今後の、計画について、切り出した。
「紅さんの、新しい、身分証明書は、準備できています。名前は、陳安娜。香港生まれの、カナダ国籍。職業は、引退した、美術教師。この、プロフィールならば、誰にも、怪しまれることは、ありません」
彼女が、テーブルの上に、広げたのは、完璧に、偽造された、カナダのパスポートと、関連書類だった。そこには、もはや、法輪功学習者・紅の、痕跡は、どこにも、なかった。
「数日中に、ここから、プライベートジェットで、カナダの、バンクーバーへ、飛んでいただきます。現地には、私の、息のかかった、最高の、医療チームと、セーフハウスを、用意してあります。そこで、ゆっくりと、療養してください。その後のことは、また、追って、ご相談、ということで」
その、完璧なまでの、手際の良さ。
義成は、改めて、林祖苑という、女性の、底知れない、能力に、舌を巻いた。彼女は、もはや、単なる、闇の、情報屋では、ない。小さな、国家の、諜報機関に、匹敵するほどの、組織と、実行力を、兼ね備えた、真の、ゲームプレイヤーへと、成長していた。
そして、その、成長の、きっかけを、作ったのが、自分自身であることに、義成は、奇妙な、満足感を、覚えていた。
「…祖苑さん、義成君」
紅が、二人の顔を、交互に、見ながら、静かに、言った。「あなたたちには、何と、礼を、言ったら、いいのか…。この、命、あなたたちに、救われた、この、命。残りの、人生は、世のため、人のため、そして、あなたたちのような、若い、魂のために、使いたいと、思う」
その、あまりにも、気高い、言葉に、祖苑は、目を、伏せた。
義成は、ただ、黙って、頷いた。
彼は、この「聖戦」の、第一幕が、完璧な形で、終わりを告げたことを、確信した。
だが、彼には、まだ、果たさなければならない、もう一つの「仕事」が、残されていた。




