2. 上海の、光
義成は、上海へと、舞い戻った。
だが、彼が、向かったのは、ウォルドーフ・アストリアの、あの、豪華なスイートルームでは、なかった。
彼が、足を運んだのは、上海交通大学の、広大な、キャンパスだった。
季節は、夏。高く、伸びた、プラタナスの、並木道が、心地よい、木陰を、作っている。自転車で、笑いながら、走り抜けていく、学生たち。図書館の、芝生の上で、語り合う、恋人たち。
そこは、義成が、生きてきた、闇の、世界とは、完全に、無縁の、光と、希望と、そして、少しばかりの、青臭い、理想に、満ちた、空間だった。
彼は、その、眩しい、光の中で、少しだけ、居心地の、悪さを、感じていた。
彼が、ここへ来たのは、母・京海から、託された、もう一つの、願いを、果たすためだった。
母には、紅の他にもう一人、文化大革命の、嵐の中を、共に、生き抜いた、親友がいた。名前は、明。今は、この、上海交通大学で、歴史学の、教授を、務めている。
義成は、母からの、手紙と、日本の、ささやかな、土産物を、彼女に、届けるために、アポイントメントを、取っていたのだ。
歴史学部の、研究棟。古びた、しかし、趣のある、その建物の、一室で、彼は、明教授と、対面した。
五十代半ば、穏やかな、物腰、知的な、眼鏡の奥で、優しく、微笑む瞳。母が、「静かに燃える月見草」と、評した通りの、可憐で温かい、オーラに、包まれた女性だった。
「まあ、あなたが、京海の、息子の、義成君。遠いところを、よく、来てくれましたね」
明教授は、彼を、歓迎し、自ら、龍井茶を、淹れてくれた。
二人は、しばらく、母の、思い出話に、花を咲かせた。
その時だった。
「失礼します、お母さん。頼まれてた、資料、持ってきたけど…あら、お客様?」
研究室のドアが、ノックと共に、開かれ、一人の、若い女性が、顔を、覗かせた。
白衣を、着ている。おそらく、この大学の、学生なのだろう。化粧気のない、素朴な、顔立ち。少し、癖のある、髪を、無造作に、一つに、束ねている。その、大きな、黒い瞳は、好奇心と、そして、少しばかりの、人見知りの、色を、浮かべて、戸惑ったように、義成を、見つめていた。
「ああ、情情。ちょうど、よかった。こちら、日本から、いらした、青木義成さん。お母さんの、一番の、親友の、息子さんよ。ご挨拶なさい」
「あ、は、はじめまして…娘の、董情情です…」
彼女は、ぺこり、と、ぎこちなく、頭を下げた。その、あまりにも、素朴で、不器用な、仕草。
義成は、その瞬間、時間が、止まるかのような、感覚に、襲われた。
この、光景を、俺は、知っている。
かつて、遠い、昔。
日本で、絶望の淵にいた、自分を、救ってくれた、あの、日本語学校の、ロビーで。
一人、ぽつんと、不安げに、座っていた、一人の、女性。
李殷。
目の前の、この、董情情という、女性は、殷とは、似ても、似つかない。
だが、彼女が、纏う、その、空気。その、純粋で、何の、打算も、感じさせない、魂の、透明感。
それが、義成の、心の、最も、柔らかな、そして、最も、痛む、場所を、強く、刺激した。
「…青木、と申します。こちらこそ、初めまして、情情さん」
義成は、自分が、どんな顔で、彼女に、挨拶をしたのか、わからなかった。
ただ、彼の、心の中の、壊れた、羅針盤の針が、この、光の中で、再び、激しく、震え始めたことだけは、確かだった。




