【フラッシュバック:暗黒の密室】
……暗い。
どこまでも、暗い。
ここは、どこだ?
目を開けているのか、閉じているのかさえ、わからない。完全な、漆黒。音も、ない。自分の、心臓の鼓動と、荒い呼吸の音だけが、耳の中で、不気味に、反響している。空気も、ない。いや、あるのかもしれない。だが、それは、何の匂いもしない、無機質な、まるで、真空のような、空気だ。
手足の感覚が、ない。コンクリートの、冷たい床に、大の字に、なっていることだけが、かろうじて、わかる。だが、その、手足が、本当に、自分のものなのかどうか、自信が、持てない。
時間も、ない。今が、朝なのか、夜なのか。一時間が経ったのか、一日が経ったのか。
感覚の、すべてが、奪われていく。自己の、輪郭が、溶けていく。
俺は、誰だ?
青木義成?張義成?そうだ。俺は、龍の、傳人。父さんと、母さんの、息子…。李殷…。そうだ、俺は、李殷の、夫…。
思考が、まとまらない。記憶の、断片が、この、漆黒の、虚無の中で、ばらばらに、なって、漂っている。
助けてくれ。誰か。声が、出ない。喉が、張り付いて、ただ、ひゅう、ひゅう、と、乾いた音が、するだけだ。
怖い。怖い。怖い。
死ぬことよりも、怖い。自分が、自分で、なくなっていく、この、感覚。
このまま、この、暗闇に、溶けて、消えてしまうのか。一つの、思考の、粒子として、永遠に、この、無の空間を、彷徨い続けるのか。
やめてくれ。
やめてくれええええええっ!
「青木様」
その声は、天からの、啓示のように、彼の、意識の、暗闇を、貫いた。
義成は、はっと、我に返った。
彼の体は、スイートルームの、広大なバスルームに併設された、プライベート・スパの、大理理石の床の上に、横たわっていた。
麗紅が、彼の、全身を、温かい、濡れたタオルで、丁寧に、拭き清めているところだった。彼は、知らず知らずのうちに、叫び声を上げ、暴れていたのだ。その額には、脂汗が、びっしょりと、浮かんでいる。
「…すまない…」
「謝らないで、くださいまし。心の、中に、溜まった、澱は、すべて、吐き出して、しまいなさい。私は、その、すべてを、受け止めます」
彼女は、彼の体を、拭き終えると、彼を、支えるようにして、立ち上がらせ、巨大なバスタブへと導いた。そこには、翡翠色に染まった、ぬるめの薬湯が、芳しい、清浄な香りを放っている。チベットの雪蓮花、雲南の三七人参。そして、彼女自身が丹念に調合した、数十種類の鎮静作用のある貴重な漢方薬が、惜しげもなく注ぎ込まれていた。
「これは、あなたの、お体の中の、毒を、外に出すための、お清めの儀式ですの」
彼女は、義成の汚れた衣服を、一枚、一枚、丁寧に脱がせていく。そして、彼を湯の中へとゆっくりと導いた。薬草の成分が傷口に染みて、義成の体が小さく痙攣する。
その時、麗紅は、自らもバスローブを脱ぎ、その豊かで柔らかな裸体で、湯の中へと入ってきた。そして、彼の背後から、そっと、その傷ついた体を、抱きしめた。
彼女の豊かな乳房が、彼の背中に柔らかく当たる。彼女の絹のような肌の温もりが、彼の冷え切った体に、ゆっくりと伝わっていく。彼女の体から立ち上る、甘く、清らかな、花の香りと、母性を感じさせる、柔らかな肌の匂い。その匂いが、彼の、ささくれ立った神経を、優しく、撫でていく。
彼女は、最高級の海綿を手に取ると、薬湯を含ませ、彼の体を洗い始めた。首筋の火傷の痕跡をなぞる時、剥がれ落ちた指の爪を清める時、彼女はその一つ一つに、祈りを込めた。
(この、痛みが、どうか、和らぎますように)
(この、悲しみが、どうか、癒されますように)
彼女の献身的な愛撫の中で、義成のこわばっていた体が、少しずつその力を抜いていく。彼は、いつしか彼女の腕の中で、まるで傷ついた子供のように、その身を委ねていた。生まれて初めて感じたような、絶対的な安らぎ。それは、彼が、この世に生を受けてから初めて体験する、母なる海への帰還だった。




