序章:奈落の底より
“The world breaks everyone and afterward many are strong at the broken places.”
(世界はあらゆる人間を打ち砕くが、その後、多くの者は、その砕かれた場所で、強くなるのだ)
– Ernest Hemingway/アーネスト・ヘミングウェイ
上海の空は、死んでいた。
2006年、夏。街全体が巨大な蒸し器と化したこの魔都で、空は白濁し、太陽は輪郭を失い、ただ不快な熱と光を無差別に地上へ吐き散らしていた。黄浦江の水面は、澱んだ緑色に濁り、生命が腐敗した匂いをあたりに撒き散らしている。
その、死んだ空の下、外灘に聳え立つウォルドーフ・アストリアの、最上階。プレジデンシャルスイートの、厚い防弾ガラスの向こう側で、青木義成は、まるで自分が、巨大な水槽の底に沈む、希少な深海魚にでもなったかのような、奇妙な感覚に囚われていた。現実感が、ない。自分の肉体と、魂の間に、一枚の、分厚く冷たいガラスが、挟まっているかのようだ。
二ヶ月。
彼が、この世のすべての光と音、そして、人間としての尊厳を奪われてから、それだけの時が、流れていた。
彼は、帰ってきた。いや、正確には「解放」された。あの、地図には存在しない、国家という名の怪物が、その暗い腹の中に隠し持つ、秘密の消化器官――「黒監獄」から、吐き出されたのだ。
河北省の女帝・李霃帘が、その政治生命とプライドを賭して動いた。彼女が、その熟れた肉体と狡猾な頭脳を武器に、パトロンである王書記を動かした。その結果だった。中央規律検査委員会の若きハイエナ、董苅は、獲物を逃した猛獣の、屈辱に歪んだ顔で、彼を独房から引きずり出した。その最後の視線が、「お前を決して忘れない、いつか必ず息の根を止めてやる」と、雄弁に物語っていた。
そんなことは、もはや、どうでもよかった。
義成の心には、怒りも、恐怖も、そして、安堵さえも、なかった。あるのは、ただ、どこまでも深く、どこまでも冷たい、絶対的な「虚無」。まるで、魂が、中身をすべて抜き取られ、がらんどうの、美しいガラス細工になってしまったかのような。彼は、その、虚ろな器のまま、上海に戻ってきた。傷ついた獣が、ただ、己の巣穴の匂いを求めて、彷徨い帰れるように。
スイートルームの、重厚なマホガニーのドアが、音もなく開いた。
入ってきたのは、王麗紅だった。
ウォルドーフ・アストリアが、VVIPのためだけに用意した、癒しの女神。
彼女は、義成の、その変わり果てた姿を、ドアを開けた瞬間に、目にしていた。ソファに深く沈み、焦点の合わない目で宙を見つめる男。だが、彼女の、その、見る者に深い安らぎを与える、古典的な美貌は、少しも、揺らがなかった。驚きも、憐憫も、その表情には浮かんでいない。ただ、母が、遠い戦地から帰還した、ただ一人の息子を迎えるかのような、深く、静かな、覚悟だけが、その瞳の奥に、宿っていた。
「…おかえりなさいませ、青木様」
彼女の声は、囁くように柔らかく、この、死んだような部屋の空気に、初めて、生命の響きを与えた。
義成は、ソファに、深く沈み込んだまま、動かなかった。動けなかった。まるで、彼の肉体を動かすための、すべての命令系統が、断線してしまったかのように。
彼は、痩せていた。この二ヶ月で、十キロ以上、体重が落ちている。その頬は、病人のようにこけ、肌は、土気色を通り越して、陽の光を忘れた洞窟の苔のような、不健康な青白い光沢を放っていた。
だが、麗紅の視線を、釘付けにしたのは、その、外見の変化ではなかった。彼が、無造作に脱ぎ捨てた、シャツの隙間から覗く、その、肌。かつて、鋼のように鍛え上げられ、しなやかな獣の美しさを誇っていたはずの、その肉体。
そこには、無数の、おぞましい痕跡が、まるで、抽象画家の、悪夢のような筆致で、刻み込まれていたのだ。
規則正しく並んだ、小さな円形の、火傷の痕。
手足の関節に残る、何かで、きつく縛られていたことによる、鬱血の痕。
そして、その、すべての傷よりも、痛々しく、見る者の心を、抉ったのは、彼の、両手の、指の爪だった。いくつかの爪は、剥がれ落ち、あるいは、不自然な紫色に、変色している。
麗紅は、息を飲んだ。だが、彼女は、決して、悲鳴を上げなかった。
彼女は、静かに、義成の前に、跪くと、その、泥に汚れた、高級な革靴の、紐を、解き始めた。
「麗紅…」
義成の、唇から、か細い、掠れた声が、漏れた。それは、二ヶ月ぶりに、彼が、発した、意味のある、言葉だったのかもしれない。
「何も、仰らないでくださいまし」
麗紅は、彼の言葉を、遮った。彼女の声は、震えていなかった。むしろ、絶対的な、慈愛に、満ちていた。「今は、ただ、お体を、お休めください。あなたの、龍は、ひどく、傷つき、そして、深く、眠っておいでです。私が、すべて、癒し、そして、再び、目覚めさせて、差し上げますから」
彼女は、そう言うと、彼の、その、傷だらけの足を、まるで、聖なる遺物に、触れるかのように、両手で、そっと、持ち上げた。
その、瞬間だった。
彼女の、温かい、柔らかな、手のひらの感触が、トリガーとなった。
義成の、閉ざされていた、記憶の、水門が、激しい音を立てて、決壊した。




