6. 奈落の始末
渤海湾の、暗い、海を、滑るように、進む、環境調査船。
エンジンの、低い、振動だけが、支配する、船室で、李霃帘は、毛布に、くるまり、眠っていた。いや、眠っているように、見えただけかもしれない。時折、その、長い、まつ毛が、微かに、震える。逃走の、極度の、緊張と、すべてを、失った、虚脱感から、彼女の、精神は、かろうじて、仮死状態を、保っている。
義成は、その、穏やかな、寝顔を、一瞥した後、静かに、船室を、出た。
甲板は、冷たい、潮風が、吹き抜けていた。彼は、風を、避けるように、操舵室の、影に、身を、潜め、小型の、衛星電話を、取り出した。数度の、コール音の後、微かな、ノイズと共に、その声が、聞こえてきた。
低く、親密な響き。この世で、ただ一人、彼の、魂の、輪郭を、正確に、なぞることのできる、声。
「義成?…あなたなのね」
林祖苑だった。その、声には、安堵と、そして、彼と、二人きりの時にだけ見せる、微かな、甘さが、滲んでいた。
「ああ、祖苑。俺だ。君の声が、聞けて、安心した」
「無事なのは、わかっていたわ。あなたの、チェス盤の上で、駒が、予定通りに、動かないことなど、ありえないもの」
その、軽口の裏に深い信頼が、あることを、義成は知っていた。
彼女は、師だった。この、巨大な、国の、光と、闇の、すべてを、彼に、教え込んだ、唯一無二の存在。そして、冷たい、シーツの上で、互いの、孤独を、慰め合う共犯者でもあった。
「君のチームの、おかげだ。感謝している」
「ビジネスよ」彼女は、そう、言いながら、ふふ、と、小さく、笑った。「それで、最後の『演目』の、幕を、上げるのでしょう?」
「ああ。頼む」
ここからが、彼ら二人だけの、聖戦の、最終幕だった。
「第一の、演目。『張書記の、断頭台』。脚本は、私たちが、練り上げた通りに、仕上がっているわ。彼が、党中央を裏切り、私腹を肥やした、完璧な証拠。金の流れは、すべて彼の一族の口座に。あなたと、あの、哀れな女帝の、名前は、被害者リストの中に、綺麗に、収まっている」
「完璧な、仕事だ」
「新しい、皇帝陛下は、猜疑心の塊。特に、自分の足元をすくおうとする、臣下には、容赦がない。この『脚本』は、彼の心に、最も深く突き刺さる、毒の刃よ。いつ、観客に、見せるわけ?」
「タイミングは、こちらで、指示する。最も、ドラマティックな、瞬間に、党中央の、規律検査委員会という、名の劇場へ届けてくれ」
「承知したわ、監督さん」
一瞬の、沈黙。電話の、向こうで、祖苑の呼吸が変わるのを、義成は感じ取った。本題に入る合図だ。
「…そして、第二の、演目よ、義成。…あの『バンク』の、件…」
祖苑の、声から、戯れるような、響きが消え、乾いた震えが混じった。彼女の天才的なハッカーチームは、数週間をかけ、あの、荘園の地下に広がる、神をも恐れぬシステムのサーバーの奥深くに、到達していた。
「データは、すべて、抜き出したわ」その声は、囁きに、近かった。「あなた自身の身体データを向こうに取られたことで、うちのハッキングがなんとかうまく入り込めたが、私に、この国の奈落を見ろとあなたが教えてくれた。でも…でも、こんな、底なしの、地獄が、あるなんて、思わなかった…。生ける『部品』たちのリスト、彼らの人生、そして、手術室で解体されていく、おぞましい映像…。義成、これは、人間の、やることじゃない。悪魔の、工場よ…」
プロとしての、冷静さを、失った、その声に、義成は胸が締め付けられるのを感じた。
「そのすべてを、一枚の光ディスクに。最高の暗号化を、施して。香港のオフィスで、直接受け取るよ」
「…わかったわ。でも、義成、一つだけ教えて」祖苑の声は、切実だった。「この、ディスク…この地獄の蓋を開ける鍵を、どうするつもり?これをCIAに渡せば、国連にぶちまければ、あの醜悪なシステムを白日の下に、晒せる!歴史が裁きを、下すわ!そうでしょう!?」
その魂の叫びに、義成は、答えなかった。
ただ、衛星電話の向こうの祖苑にまで、届くかのような、長い、長い、沈黙が流れた。
冷たい風が彼の髪を揺らす。彼が捨て去ろうとしている、大陸の闇はあまりにも深く、そして、重い。
やがて、彼は、一言だけ、呟いた。
「…おれは、日本人だ」
その、あまりにも不可解な答え。だが、林祖苑には、その意味が、痛いほど、わかった。彼女は、彼のすべてを知っているのだ。
電話の向こうから深い、深い、溜息が聞こえた。それは、諦めと悲しみとそして、変わることのない、彼への理解が入り混じった音だった。
「…そう。あなたという、人間は、いつも、そうだったわね。たった、一人ですべてを背負い込む…。わかったわ。ディスクは、用意しておく。…気をつけて、義成」
その、最後の言葉は、ビジネスパートナーのものではなく、彼の、魂の片割れの声だった。
義成は、静かに、通話を切った。
【後日談】
数日後。北京の中枢中南海は、静かな激震に見舞われた。
匿名の、情報提供者からもたらされた、一枚のUSBメモリ。そこに、収められていたのは、張書記が国家の、対日外交戦略を裏切り、私腹を肥やすためにレアアースの大規模な密輸を主導していたという、動かぬ証拠だった。金の流れ、共謀した官僚のリスト、すべてが、完璧に作り上げられていた。
自らの掲げた、禁輸政策の裏で、腹心が行っていた、巨大な背信行為。新しい皇帝として、絶対的な権威を確立しようとしていた、習近平の面子は、完全に潰された。
その怒りは、凄まじかった。
その日の深夜。人民解放軍の特殊部隊が、河北省にある、あの広大な荘園を音もなく包囲した。抵抗する者は、その場で射殺された。
観念した、張書記は捕縛される寸前、書斎で、一発の銃弾を自らの、こめかみに撃ち込んだという。元軍人としての、最後のプライドだったのかもしれない。
彼の一族も、また腐敗の元凶として容赦なく、すべて粛清された。
そして、荘園の地下に、広がっていた、あの冒涜的なる「バンク」は、その存在を完全に、秘匿されたまま、共産党政府の管理下に、そっくり、そのまま接収された。システムは、止まることなく、ただ、その主人が、変わっただけだった。
今となって、その、邪悪な、システムの存在を証明する、唯一の証拠は、東シナ海の闇を、日本へと向かう一人の男がやがて、その手にするであろう一枚の光ディスクだけとなった。
奈落は、ただ、その深さを、増しただけだった。




