5. 女帝と脱出
天津の古い租界地区に、ひっそりと佇む、サービスアパートメントの一室。
窓の外では、海河の濁った水面が街のネオンを、気だるげに反射している。部屋の中は、薄暗く息が、詰まるような、沈黙だけが満ちていた。
李霃帘は、ソファの上で、膝を抱え、小さく震えていた。その、顔から血の気は失せ、いつも、自信に満ちた、瞳は拠り所を、なくしたように、虚空を、彷徨っている。数時間前に、義成から、突きつけられた、残酷な真実。張書記の、裏切りという、名の、冷たい刃が、彼女の心臓を貫いていた。
「…本当に…今日なの…?」
か細い声が、静寂を、破った。
「ああ。今夜だ」
窓際に、立ち、街を、見下ろしていた、義成は、静かに、答えた。彼は、李霃帘とは、対照的に、嵐の前の、海のように、不気味なほど、落ち着き払っていた。
「私の情報網によれば、張書記の息のかかった、武装警察の特殊部隊が、今夜、我々が潜伏していると『思われている』、北京郊外の隠れ家を、急襲する。作戦名は『害虫駆除』だそうだ」
「…害虫…」
李霃帘の唇が侮辱に歪んだ。「あの男は、私をそう呼ぶのね…」
「君だけじゃない。俺もだ。我々は彼の新しい栄光のための汚物にすぎん」
義成は振り返り、テーブルの上に置かれた二つのパスポートと数枚の身分証を、指さした。「だが、その汚物は今からこの国から消える」
「…どうやって?この天津の、港も、空港も、すでに、あなたの、顔写真が出回っているはずよ。私だって、同じ。我々は、籠の中の、鳥じゃないの!」
パニックに陥る彼女に、義成は静かに歩み寄った。そして、彼女の目の前に、しゃがみこみ、その、怯える、瞳を、まっすぐに、見つめた。
「ディアオリェン。俺を、信じろ。道は、俺が、作る」
その、静かな、自信に、満ちた、声に、李霃帘は、一瞬、言葉を、失った。
その時、義成のポケットの中で、古いプリペイド携帯が短く振動した。彼は、画面を一瞥し、無言で李霃帘に見せる。
そこには、ただ、一言、こう、表示されていた。
『花火が、上がりました』
「…何なの、これは…?」
「合図だ。替え玉が、隠れ家に入った。そして、張書記の部隊が、その周辺を包囲した。ショーの始まりだ」
義成は、立ち上がると、クローゼットから、一つの、大きな、バッグを、取り出した。中から、現れたのは、汚れた、作業着と、使い古された、帽子、そして、度の入っていない、分厚い、黒縁の、メガネだった。
「これを、着るんだ。今から、君は、権力の、頂点に、君臨した、女帝じゃない。港で、働く、夫を、迎えに来た、ただの、貧しい、女房だ」
「…こんなもの…!」
李霃帘は、その、みすぼらしい、服を、侮蔑の、目で、見た。彼女の、プライドが、それを、拒絶する。
「嫌なら、ここで、死ぬか?」
義成の、冷たい、一言が、彼女の、自尊心を、打ち砕いた。彼女は、震える手で、その、作業着を、受け取った。高価な、シルクの、ドレスを、脱ぎ捨て、ごわごわした、布に、身を包む。義成もまた、同じように、港湾労働者の、姿へと、変わっていた。
「いいか、よく聞け」義成は、彼女の、肩を、掴んだ。「これからは、決して、背筋を、伸ばすな。少し、猫背気味に。歩く時は、自信なさげに、少し、足を引きずるように。誰とも、目を、合わせるな。お前は、もはや、誰からも、注目される、存在じゃない。空気だ。石ころだ。わかるな?」
それは、彼女がこれまで生きてきた、人生のすべてを否定する言葉だった。李霃帘は唇を噛みしめ小さく頷いた。
二人は、アパートの、裏口から、ゴミ収集場へと、抜けた。生ゴミの、腐敗臭が、鼻を、つく。李霃帘は、思わず、顔を、しかめたが、義成の、鋭い、視線に、気づき、慌てて、表情を、消した。
そこに、止まっていたのは、一台の、錆びついた、小型の、バンだった。側面には「天津市衛生管理局」と、掠れた、文字が、書かれている。運転席から、無口な、男が、降りてきて、二人に、無言で、頷き、荷台の、ドアを、開けた。
「司馬蝶々の、手配だ。彼女の、NGOが、行う、市の、緑化活動の、ボランティア車両に、なっている。検問は、フリーパスのはずだ」
二人は、道具箱と、肥料袋が、積まれた、薄暗い、荷台に、乗り込んだ。バンが、ゆっくりと、走り出す。
ガタン、ガタン、と、不規則な、揺れ。暗闇の、中で、二人は、身を、寄せ合った。
「…義成」李霃帘が、囁いた。「あの…替え玉というのは…?」
「金で、雇った、プロだ」義成は、淡々と、答えた。「君と、俺に、背格好が、似ている、男女だ。大金を、積んだ。彼らも、これが、命懸けの、仕事だと、理解している」
「…死ぬと、わかっていて…?」
「ああ。彼らの、家族には、一生、遊んで暮らせるだけの、金が、渡る。それが、この世界の、取引だ」
李霃帘は、息を、のんだ。自分たちが、生き延びるために、二つの、命が、今、まさに、消えようとしている。その、冷徹な、事実に、彼女は、これまでも多くの汚職、党内抗争の経験をしてきたにもかかわらず、自分の死という事実に直面した時、初めて、心身ともに疲れ、自分の足が踏み入れた、世界の本当の、恐ろしさを、改めて、思い知らされた。
やがて、遠くから、けたたましい、サイレンの、音が、聞こえてきた。一つではない。何十もの、サイレンが、街の、夜を、切り裂き、一つの、場所へと、収束していく。
「始まったな」
義成の、呟きが、闇に、響く。
北京郊外の、隠れ家で、今、激しい、銃撃戦が、繰り広げられている、光景が、目に、浮かぶようだった。
バンは、港へと向かう、幹線道路の、検問に、さしかかった。武装した、警官が、鋭い、目で、一台ずつ、車を、調べている。李霃帘の、心臓が、大きく、脈打った。
運転手の、男が、窓から、身分証と、許可証を、提示する。警官は、書類を、一瞥し、汚い、バンの、側面を見て、面倒くさそうに、手を、振った。
「行け、行け」
バンは、何事もなく、検問を、通過した。
「なぜ…私を、助けるの…?」
暗闇の、中で、李霃帘は、ずっと、胸に、あった、疑問を、口にした。「私は、あなたを、利用しようとした。張書記に、あなたを、売り渡そうとさえ、考えたことがあった。そんな、女なのに…」
義成は、しばらく、黙っていた。そして、静かに、口を、開いた。
「君の、その、美しい、魂が、あの、醜悪な、男たちの、欲望の、中で、完全に、腐り果てていくのを、見ていたくなかった。それだけ、なのかもしれない」
その時、再び、携帯が、振動した。
義成が、画面を、確認する。そこには、中国共産党内部通達という存在での、ニュース速報に値する公布分が、送られてきていた。
『北京郊外にて、国際テロリスト容疑の、日本籍男性と、共犯の、元党居部部級幹部の中国籍女性が、特殊部隊との、銃撃戦の末、死亡』
義成は、その、画面を、李霃帘に、見せた。
彼女は、その、記事を、食い入るように、見つめた。自分たちの「死」を、告げる、短い、文章。
彼女は、すべてを、失った。地位も、富も、名前さえも。公式には、李霃帘という、人間は、この世から、消えたのだ。
だが、その、心の中には、絶望と、共に、生まれて初めて、知った、恋という名の、温かい、光が、微かに、灯っていた。
バンは、やがて、潮の、香りが、満ちる、天津港の、巨大な、貨物エリアに、到着した。二人は、荷台から、降り、司馬蝶々が、手配した、環境調査船の、タラップを、静かに、上がった。
龍は、女帝を、連れて、その、長かった、戦いの、舞台から、姿を、消した。
船が、ゆっくりと、岸壁を、離れる。
彼らが、捨てた、国の、光が、遠ざかっていく。その、行く末にあるのが、自由なのか、それとも、新たな、束縛なのか。
その答えは、まだ、誰にも、わからなかった。




