第五章:龍の最後の聖戦 1. 龍脈の、異変
"The true measure of a man is how he treats someone who can do him absolutely no good."
(人の、真の価値が、試されるのは、自分に、何の利益ももたらさない人間に、どう接するかである)
– Samuel Johnson/サミュエル・ジョンソン
1. 龍脈の、異変
2010年、9月。
秋風が、北京の、乾燥した空気を、揺らし始めていた。だが、その風は、目に見えない、不吉な、鉄の匂いを、孕んでいた。日中関係という、名の、巨大な、構造プレートが、軋みを上げていた。その震源は、東シナ海の、小さな、無人島群――尖閣諸島だった。
中国漁船が、日本の、海上保安庁の、巡視船に、衝突。船長が、日本側によって、逮捕される。
その、一報が、もたらされたのは、河北省と、内モンゴルの、境界に広がる、あの、皇帝の城でのことだった。
張書記の、私的な、サンクチュアリ。その、最も奥深く、彼の魂の聖域とも呼べる、茶室に、青木義成は、招かれていた。
茶室は、完璧なまでに、静寂に支配されていた。壁には、宋代の水墨画の掛け軸が一幅。床の間には、明代の青磁の花瓶に、一輪の、白い山茶花が、凛として生けられている。日本の「わび・さび」にも通じる、禁欲的なまでの、美意識。だが、その、静けさは、見る者を、癒すものではない。むしろ、その精神を、研ぎ澄ませ、すべてを、見透かすための、装置のようだった。
義成は、張書記と、二人きりで、向かい合っていた。
部屋に満ちているのは、沸き立つ、鉄瓶の、湯の音と、そして、極上の、武夷岩茶「大紅袍」の、馥郁たる、香りだけ。それは、岩肌に、蘭が咲いたような、甘く、そして、どこか、孤高な、香りだった。
「…飲め」
張書記が、低い声で、促した。彼が、自ら、淹れた、その茶は、小さな、紫砂の、茶杯の中で、深い、琥珀色に、輝いている。
義成は、黙って、その茶杯を、両手で、包むように、持ち上げた。そして、その香りを、静かに、吸い込み、一口、その、芳醇な、液体を、口に含んだ。
舌の上で、転がすと、岩のような、ミネラルの、力強さと、花の蜜のような、甘みが、複雑に、絡み合う。そして、喉を、通り過ぎた後には、長い、長い、余韻が、残る。
「どうだね」
「…素晴らしい、お茶です。まさに、岩の、骨と、花の、魂」
義成の、その、的確な、賛辞に、張書記の、その、剃刀のような、眼光が、ほんの少しだけ、和らいだ。この男は、本物が、わかる男だ、と。
「茶も、人も、同じだ」
張書記は、自分の茶杯を、手に取った。「厳しい、環境で、育ったものほど、その、内に、深い、味わいを、秘めている」
その、言葉が、合図だった。
静かな、しかし、命を、賭した、心理戦の、ゴングが、鳴らされたのだ。
「北京の、風が、騒がしい」
張書記は、独り言のように、言った。「東の海で、小魚が、一匹、網にかかっただけで、この国は、まるで、嵐の、前夜のようだ」
「嵐を、望んでいる、人間がいる、ということでしょう」
義成は、静かに、応じた。
「ほう。君には、その、風の、匂いが、わかるか」
「風見鶏は、風の、匂いを、読むのが、仕事ですから」
その、皮肉めいた、答えに、張書記は、初めて、声を出さずに、笑った。肩が、わずかに、揺れる。
「君は、正直な男だ、青木君。そして、賢すぎる。それが、君の、最大の、武器であり、同時に、最大の、弱点でもある」
彼は、葉巻に、火をつけた。キューバ産の、最高級の、コイーバ。その、濃厚で、甘い、紫煙が、茶の香りと、混じり合い、部屋の、空気を、さらに、重く、そして、濃密なものへと、変えていく。
「党内の、年寄りどもと、血気盛んな、軍の、若造どもが、手を組んだ。胡錦濤の、弱腰外交を、突き上げ、次期指導者である、習近平の、忠誠心を、試すための、壮大な、芝居だ。彼らは、国民という、名の、巨大な、獣を、ナショナリズムという、餌で、煽り、日本を、屈服させようとしている。実に、愚かで、そして、危険な、火遊びだ」
張書記は、まるで、他人事のように、淡々と、語った。だが、その言葉の、裏には、この、事態を、冷徹に、分析し、そして、自らの、利益のために、どう、利用するか、という、恐ろしいほどの、計算が、隠されていることを、義成は、見抜いていた。
「そして、彼らが、切るカードは、わかっている」
張書記は、義成の、目を、まっすぐに、見つめた。
「レアアースの、禁輸だ」
その、言葉が、発せられた瞬間。
茶室の、空気が、ぴん、と張り詰めた。
義成は、動じなかった。
彼の、心は、静かな、湖面のようだった。
なぜなら、彼は、この、瞬間が、来ることを、知っていたからだ。
数週間前。東京。
あの、窓のない部屋で、佐藤は、義成に、同じ、言葉を、告げていた。
「…青木君。事態は、最悪の、方向へ、向かっている。我々の、情報分析によれば、中国は、近いうちに、レアアースを、武器として、使ってくる、可能性が、極めて高い。そうなれば、日本の、産業は、壊滅的な、打撃を、受ける。国家の、危機だ」
佐藤の、声は、いつになく、切迫していた。
「…君にしか、頼めない。何とか、手を、打っては、もらえないだろうか。これは、もはや、命令ではない。私、個人の、願いだ。この国を、救ってほしい」
初めて、見せた、あの、能面のような男の、人間らしい、感情。
義成は、その時、すでに、覚悟を、決めていた。
(…来たか)
義成は、内心、そう、呟いた。
張書記は、自分を、試しているのだ。
この、国家的、危機を、前にして、お前は、どちらの、側に、立つのか、と。
日本人としての、アイデンティティか。
それとも、我々と、築き上げた、闇の、盟約か。
彼の、答え、一つで、自分の、命運が、決まる。
義成は、ゆっくりと、茶杯を、置いた。
そして、顔を、上げた。その、瞳には、何の、感情も、浮かんでいない。ただ、深い、深い、湖のような、静けさだけが、あった。
「書記。それは、あなたと、私にとって、最大の、好機では、ありませんかな?」
その、あまりにも、意表を、突く、言葉。
今度は、張書記の、眉が、わずかに、動いた。
「…好機、だと?」
「ええ」義成は、続けた。その声は、悪魔の、囁きのように、静かで、甘美だった。「党の、愚か者どもが、大義名分を、掲げて、表の、扉を、閉ざしてくれる。ならば、我々は、彼らが、気づかない、裏の、窓から、これまで以上に、効率的に、そして、高く、我々の『商品』を、売るだけの、こと。需要と、供給の、バランスが、崩れれば、価格は、高騰する。これは、経済の、基本原則です。そして、その、独占的な、供給ルートを、握っているのは、この、世界で、あなたと、私、二人だけ…」
張書記は、黙っていた。
だが、その、目の奥で、貪欲な、光が、揺らめいたのを、義成は、見逃さなかった。
この男もまた、国家の、威信などよりも、自らの、利益を、優先する、同種の、獣なのだ。
「だがな、青木君」
張書記は、葉巻の、灰を、灰皿に、落としながら、言った。「その、好機は、同時に、最大の、危機とも、なる。もし、我々の、裏の、窓が、見つかれば、どうなる?我々は、国家への、裏切り者として、党の、すべての、派閥から、集中砲火を、浴びることになる。それは、完全な、死を、意味する」
「だからこそ、あなたと、私、なのでしょう?」
義成は、微笑んだ。
「この、危険な、綱渡りを、渡り切ることのできる、人間が、他に、いますか?党内の、すべての、反対勢力を、力で、ねじ伏せることのできる、あなたの、政治力。そして、世界中の、どんな、税関の、目をも、欺くことのできる、私の、闇の、ネットワーク。我々二人が、手を組めば、不可能なことなど、何もない」
二人の、視線が、空中で、激しく、火花を、散らす。
疑心暗鬼。
腹の、探り合い。
言葉の、裏に、隠された、無数の、罠。
張書記は、この、若い、日本人が、恐ろしかった。その、頭脳は、あまりにも、切れすぎる。そして、その、魂の、奥底には、自分と、同じか、それ以上に、冷たい、闇が、広がっている。
いつか、この男は、自分さえも、裏切るのではないか。
義成もまた、張書記の、恐ろしさを、感じていた。
この男は、目的のためならば、どんな、非情な、決断も、下すだろう。自分もまた、いつか、用済みになれば、あっさりと、切り捨てられる、駒に、すぎないのかもしれない。
だが、二人は、同時に、理解していた。
互いが、互いを、必要としている、という、紛れもない、事実を。
この、巨大で、危険な、ゲームを、共に、プレイできる、パートナーは、この世に、お互いしか、いないのだ、と。
「…いいだろう」
長い、沈黙の末、張書記は、言った。「君の、その、狂気の、賭けに、乗ってやる。だが、一つだけ、条件がある」
「何でしょう」
「君の、すべてを、見せろ」
張書記の、声が、絶対零度の、響きを、帯びた。「君が、これまで、築き上げてきた、すべての、ルート、すべての人脈、すべての、隠し口座。その、一切合切を、私に、開示しろ。君が、私を、裏切らないという、絶対的な『証』を、見せるのだ」
それは、究極の、踏み絵だった。
義成は、一瞬、息を飲んだ。
だが、彼は、この、瞬間が、来ることも、計算に入れていた。
「…わかりました」
彼は、静かに、頷いた。「ただし、こちらからも、一つだけ、条件を、提示させて、いただきたい」
「言ってみろ」
「あなた様の、魂の、一部を、私に、お預けいただきたい」
「…何?」
「あなた様の、聖域。あの、荘園の、地下に広がる、『バンク』。あそこの、すべてを、私に、見せていただきたいのです。我々が、本当の、ファミリーになるためには、互いの、最も、醜悪な、秘密を、共有する必要が、あるのでは、ありませんかな?」
その、大胆不敵な、要求。
張書記の、顔が、初めて、驚愕に、歪んだ。
二人の、無言の、戦いは、ここに、一つの、結論を、見た。
彼らは、互いの、喉元に、刃を、突きつけ合うことで、究極の、信頼関係を、築くことを、選んだのだ。
それは、破滅と、隣り合わせの、あまりにも、危険な、盟約。
茶室の、空気は、もはや、茶の香りは、せず、血と、鉄の、匂いが、立ち込めているかのようだった。
龍と、皇帝の、最後の、そして、最も、壮絶な、ダンスが、今、始まろうとしていた。
その、行く末にあるのが、栄光なのか、それとも、共倒れの、破滅なのか。
その答えは、まだ、誰にも、わからなかった。




