8. 仮面の裏側、氷解の炎
インテリジェンス・ゲームは、最終局面へと突入した。義成は、単に蝶々を論破するだけでは、彼女を駒として使うことはできないと判断していた。彼女を、完全に「破壊」し、そして、自らの手で「再構築」する必要がある。そのために、彼は、最も残酷で、最も効果的な舞台を整えた。
彼が、林祖苑のハッカーチームを使って、掴んだ証拠――蝶々のNGOの背後にあるアメリカの軍産複合体の影、そして彼らが仕掛けた壮大な市場操作の全貌――。彼は、それを、単なるファイルとして彼女に突きつけることはしなかった。
彼は、天津の、古いが由緒あるホテル「アスターホテル」のスイートルームに、彼女を呼び出した。「あなたの信じる正義の、スポンサーをご紹介したい」という、謎めいたメッセージと共に。
部屋に現れた蝶々は、氷の鎧で全身を固めていた。シンポジウムでの屈辱を、決して忘れはしない、という強い意志が、その瞳に宿っている。
「…何の、つもりです?また、私を、衆人の前で、辱めるおつもりかしら」
「まさか」義成は、静かに微笑んだ。「今日は、君と、君の『真実』、そして僕の三人だけで、話をしたい」
彼は、部屋の壁に設置された、巨大なモニターのスイッチを入れた。そこに映し出されたのは、ライブ映像だった。ワシントンD.C.の、高級ホテルの、一室。そこでは、数人の、いかにもエリート然とした白人男性たちが、葉巻を燻らせ、ブランデーグラスを傾けながら、談笑している。
「…誰です、この人たちは?」
「君の、スポンサーだよ。左の男が、君が最も信頼する、環境財団の理事長、マイケル・ロスチャイルド。その隣が、ヘッジファンド『アトラス・キャピタル』のCEO、ジェームズ・パーカー。そして…」
義成は、画面の中央に座る、壮年の男を指さした。「彼が、このゲームの、キングだ。元国防次官補で、今は、大手軍事企業『レイヴン・ダイナミクス』の、筆頭顧問、デヴィッド・カーン将軍だ」
蝶々の顔から、血の気が引いていく。その名前は、彼女も知っていた。タカ派中のタカ派として、名を馳せた男だ。
「…何を、見せようというのです」
「静かに。ショーが、始まる」
義成は、部屋の音声を、上げた。
モニターの中の男たちの、会話が、聞こえてくる。それは、盗聴された、音声だった。
「…パーカー、蝶々君の、パフォーマンスは、上出来だな。中国の、レアアース生産量は、計画通り、15%ダウン。国際市場価格は、30%も、高騰している。君のファンドも、大儲けだろう」
「ええ、将軍閣下のおかげです。モンゴルの、新しい鉱山の株価も、うなぎ登りですよ」
「うむ。環境保護という『聖戦』は、実に、金になる。そして、あの、純粋で、頭のいい、中国人の、お嬢さんは、我々の、最高の『聖母マリア』だ。彼女が、涙ながらに、訴えれば、訴えるほど、我々の、口座の数字は、膨れ上がっていくのだからな。はっはっは」
下品な、笑い声が、部屋に響き渡る。
司馬蝶々は、その場に、立ち尽くしていた。
信じられない。
信じたくない。
自分の、正義が。自分の、信念が。父の、無念を晴らすための、気高い、戦いが。
すべて、この、醜悪な、男たちの、金儲けの、道具にすぎなかった。
自分が、ピエロだった。
いや、ピエロ以下だ。自らの手を、汚している自覚すらない、操り人形。
「…嘘よ…こんなこと…!」
彼女の声は、か細く、震えていた。
「嘘じゃない。これが、現実だ、司馬蝶々」
義成の声は、淡々としていた。だが、その言葉は、彼女の、砕け散った、プライドの、破片を、さらに、踏みにじるように、容赦がなかった。「君は、利用されているだけだ。君の、その、気高い、理想は、結局、大国の、醜い、エゴと、金の、亡者たちの、道具に、すぎなかった。そして、君は、その事実に、気づくことさえ、できなかった。なぜなら、君は、君自身の、出自という、コンプレックスから、目を逸らし、欧米の、価値観という、偽りの、鎧を、身にまとうことに、必死だったからだ。君は、父親を、超えたかった。だが、結局は、父親と同じように、別の、巨大な、権力に、利用され、踊らされているだけだ」
義成の、その、的確すぎる、分析は、彼女の、心の、最後の、砦を、完全に、破壊した。
彼女は、その場に、崩れ落ちた。
そして、子供のように、声を上げて、泣きじゃくった。
完璧なまでに、作り上げられていた、氷の女史の、仮面は、溶け落ち、その下から、現れたのは、ただ、傷つき、裏切られ、そして、どうしようもないほどの、自己嫌悪に、苛まれる、一人の、弱い、女の、素顔だった。
義成は、黙って、彼女が、泣き止むのを、待っていた。
やがて、蝶々は、涙で、ぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
だが、その瞳には、もはや、絶望の色はなかった。
その瞳に宿っていたのは、激しい、炎だった。
氷が、溶け、その、奥底に、封じ込められていた、マグマのような、情熱が、噴出したのだ。
「…どうすれば、いいの…?」
彼女の声は、もはや、か細くはなかった。それは、復讐を、誓う、戦士の、声だった。「私は、どうすれば、あの、偽善者たちに、鉄槌を、下せるの…?」
「戦うんだ」
義成は、静かに、言った。「僕と、手を組め。君の、その、知識と、ネットワークは、強力な、武器になる。君を、利用した、偽善者たちに、本当の、正義の、鉄槌を、下すんだ。我々二人でなら、それが、できる」
蝶々は、立ち上がった。そして、義成の前に、立つと、信じられない、行動に出た。
彼女は、自らの、アルマーニの、ジャケットのボタンを、一つ、外した。
そして、震える手で、彼の、手を、取ると、その、手のひら(・・・・)を、自らの、ブラウスの、下の、柔らかな、胸の、膨らみに、押し当てた。
「…!」
義成は、驚きに、目を見開いた。彼女の、心臓が、まるで、警鐘のように、激しく、早く、鼓動しているのが、伝わってくる。
「…わかる…?これが、私の、答えよ」
蝶々は、彼の目を、まっすぐに見つめて、言った。「私は、あなたに、すべてを、捧げる。私の、頭脳も、私の、人脈も…。そして、私の、この、体も。だから、お願い。私を、使って。私を、あなたの、最強の、武器として、使って、あの男たちを、地獄に、叩き落としてちょうだい…!」
それは、懇願であり、契約であり、そして、彼女が、生まれて初めて、発した、女としての、魂の、叫びだった。
義成は、彼女の、その、瞳の奥に、嘘偽りのない、覚悟を見た。そして、同時に、気づいてしまった。
彼女の、その、必死の、懇願の、裏側に、隠された、もう一つの、真実に。
彼女は、これまで、一度も、男を、知らなかったのだ。
父への、コンプレックス。そして、男社会への、不信感。それらが、彼女に、氷の鎧を、着せ、彼女を、無垢な、処女のまま、この、年齢まで、生きさせてきた。
彼女が、今、捧げようとしている「体」は、彼女にとって、最後に残された、そして、最も、価値のある、唯一の、切り札だったのだ。
義成の心に、激しい、葛藤が、渦巻いた。
この、純粋な、魂を、受け入れて、いいのか。
自分に、その、資格が、あるのか。
だが、彼は、選んだ。
「…わかった」
彼は、静かに、言った。「その、契約、受けよう。だが、君の、体は、必要ない。僕が、欲しいのは、君の、魂の、炎だけだ」
彼は、そっと、彼女の胸から、手を、離した。
その、拒絶とも、受け取れる、しかし、どこまでも、誠実な、彼の、態度に、蝶々の、心は、完全に、射抜かれてしまった。
この男は、違う。
これまで、彼女が、見てきた、どの男とも。
彼は、自分を、道具としてではなく、一人の、人間として、対等な、パートナーとして、認めようとしている。
氷の女王は、この瞬間、完全に、龍の、僕と、なった。
それは、恋でも、愛でもない。
もっと、深く、そして、揺るぎない、魂の、盟約だった。




