5. 龍の裁定、商社の黄昏
楚容児を巡る一件は、義烏での交渉のパワーバランスを決定づける、最後の引き金となった。
あの夜、義成が示した、金の力と、剥き出しの暴力性。それは、この街の住人たちが、最も理解しやすく、そして最も畏怖する「言語」だった。胡曲晋をはじめとする役人や商人たちは、青木義成という男が、単なる洗練された投資家ではなく、自分たちと同じか、それ以上に、深く暗い世界の掟を熟知した、危険な龍であることを、骨の髄まで理解した。
村井剛士との、水面下での熾烈な戦いもまた、この一件で、終止符が打たれた。
義成は、楚容児を解放した後、静かに、そして冷徹に、最後のカードを切った。林祖苑のネットワークを通じて掴んだ、村井が所属する総合商社の、義烏における大規模な「裏金作り」の証拠。現地法人を使った、巧妙な循環取引と、脱税。その、動かぬ証拠を、彼は、胡曲晋の前に、そっと置いた。
「…局長。村井さんの会社は、少し、この街のルールを、軽んじているようだ。このままでは、中央の規律委員会の、格好の餌食になる。そうなれば、あなたも、無傷ではいられないのでは?」
その囁きは、甘く、そして、蛇のように冷たかった。
胡曲晋は、蒼白になった。そして、義成の、本当の恐ろしさを、悟った。この男は、いつでも自分たちの首を刎ねることができるのだ、と。
数日後。
村井剛士は、本社から、緊急の帰国命令を受けた。表向きは、栄転。だが、実質的な、更迭であることは、誰の目にも、明らかだった。
義烏を去る日、村井は、ホテルのバーで、一人、グラスを傾ける義成の元へ、やってきた。その、人懐っこい笑顔は、消え、そこには、敗者の、屈辱と、憎悪だけが、浮かんでいた。
「…あんたの、勝ちだ、青木」
村井は、吐き捨てるように言った。
「汚い手を、使いやがって。俺はな、あんたとは違う。俺は、この国と、正々堂々、ビジネスで戦い、日本の、国益のために、尽くしてきたつもりだ。金と、女と、脅ししか、能のない、あんたのような、私欲の権化とは、違うんだよ!」
それは、彼の、最後の、プライドをかけた、捨て台詞だった。
だが、その時、バーの、入り口から、現れた胡曲晋が、その言葉を聞きつけ、下品に、笑った。
「はっはっは!村井さん、あんたは、まだ、わかってないようだなぁ。国益?正々堂々?そんなものはな、この国じゃ、ガキの、戯言だ。勝った者が、正義なんだよ。青木社長は、あんたよりも、この国の『真実』を、よく、理解していた。ただ、それだけのことだ。負け犬は、キャンキャン吠えずに、とっとと、自分の国へ、お帰りなさい」
屈辱に、顔を歪ませ、村井は、去っていった。
義成は、その一部始終を、まるで、自分とは、何の関係もない、舞台劇でも、見ているかのように、冷ややかに、眺めていた。グラスの中の、琥珀色の液体が、静かに、揺れていた。
彼は、勝った。
この、世界の工場という、欲望の坩堝を、完全に、手中に収めたのだ。
だが、彼の心に、勝利の、高揚感は、なかった。
ただ、楚容児に、去り際に言われた、「あなたの、痛みを、忘れない」という、言葉だけが、小さな、棘のように、こころの奥底に刺さり続けていた。




