4. 再会と駆け引き
義烏での、ビジネスは、困難を、極めた。
この街は、北京の、ような、中央集権的な、権力構造とは、無縁だった。無数の、中小の、工場、商人、そして、それらに、寄生する、黒社会が、複雑に、絡み合い、独自の、生態系を、築いている。
義成は、胡曲晋を、足掛かりに、レアアースの、密輸ルートを、構築しようとしていた。だが、彼の前に、一人の、男が、立ちはだかった。
村井剛士。
日本の、大手、総合商社から、この街に、派遣されてきた、若き、エリート。彼は、表向きは、日本の、消費財を、中国市場に、売り込む、という、クリーンな、仕事をしている。だが、その、裏では、商社の、持つ、巨大な、資本力と、情報網を、武器に、レアアースの、買い付けにも、手を伸ばしていた。
彼は、義成とは、対照的だった。
常に、笑顔を、絶やさず、腰が低く、誰とでも、すぐに、打ち解ける。だが、その、人懐っこい、笑顔の、奥には、商社マン特有の、冷徹な、計算と、野心が、渦巻いていた。
「いやあ、青木さん!あなたのような、優秀な、個人投資家が、この街に、いたとは、驚きました!ぜひ、一度、ゆっくりと、お話を、伺いたいものですな!」
二人は、ある、商談の席で、初めて、顔を合わせた。そして、互いが、同じ、獲物を、狙っていることを、瞬時に、見抜いた。
水面下での、激しい、駆け引きが、始まった。
レアアースの、鉱山の発掘権を持つ、地元の、黒社会の、ボスを、巡って、二人は、熾烈な、争奪戦を、繰り広げた。
村井は、金と、接待で、相手を、懐柔しようとする。
義成は、相手の、弱みを、握り、脅し、そして、より、大きな、利益を、提示することで、相手を、支配しようとする。
それは、正攻法と、邪道の、ぶつかり合いだった。
そんな、緊張感の、続く、ある日。
義成は、街の、中心部にある、五つ星ホテルの、ロビーで、偶然、懐かしい、顔に、出会った。
「…張…?いや、青木か?」
声を、かけてきたのは、かつて、東邦広告で、共に、働いていた、同期の、古天翔だった。
「古…!お前、どうして、ここに?」
「はは、それは、こっちのセリフだよ。まさか、こんな場所で、お前に会うとはな」
再会は、驚きと、喜びをもたらした。古は、東邦広告を、数年前に、退社し、独立。日中間の、貿易コンサルタントとして、大きな、成功を、収めていた。彼は、今、日本の、大手、アパレルメーカーの、代理人として、義烏の、縫製工場との、交渉のために、この街に来ていたのだ。
二人は、ホテルの、バーで、数年分の、空白を、埋めるように、語り合った。
「それにしても、驚いたよ、青木。お前が、会社を、突然、辞めた時は、一体、何があったのかと、皆、心配していたんだぞ。特に、高藤さん、ひどく、落ち込んでいた」
「…そうか」
義成は、千芳の顔を思い出し、少しだけ、胸が痛んだ。
「お前は、今、何の仕事を、しているんだ?相変わらず、一人で、世界を、相手に、戦っているのか?」
古の、問いに、義成は、当たり障りのない、答えを、返した。
「まあな。自由気ままに、やっているさ」
古は、それ以上、深くは、追求しなかった。だが、彼は、感じ取っていた。目の前の、かつての、同期が、自分とは、まったく違う、危険な、世界に、生きていることを。その、佇まい、その、瞳の、冷たさ。それは、もはや、普通の、ビジネスマンの、ものではなかった。
「…何か、困ったことがあったら、いつでも、言えよ。俺に、できることなら、力を、貸す。俺たちは、今でも、仲間だろ?」
古は、そう言って、笑った。
その、屈託のない、友情が、義成の、乾ききった心に、わずかな、温もりを、与えてくれた。
だが、その、束の間の、安らぎは、すぐに、打ち破られた。
その夜、義成は、胡曲晋に、再び、あの、場末の、カラオケクラブへと、呼び出された。
部屋に入ると、そこには、村井剛士が、すでに、座っていた。胡曲晋は、日本の、二つの、勢力を、天秤にかけ、より、有利な、条件を、引き出そうと、企んでいたのだ。
そして、その、部屋には、楚容児の、姿も、あった。
彼女は、胡曲晋と、その、取り巻きの、商人たちに、囲まれ、無理やり、酒を、飲まされていた。その、顔は、青ざめ、瞳には、恐怖の、色が、浮かんでいる。
「さあ、ヨンア!もっと、飲め!そして、村井社長のために、歌え!お前の、得意な、あの、悲しい歌を!」
胡曲晋が、下品に、笑う。
容児は、震える手で、マイクを、持った。そして、義成の、方へと、助けを求めるような、視線を、送った。
その、視線と、目が、合った、瞬間。
義成の、心の中で、何かが、弾けた。
(…やめろ)
その、歌を、歌うな。
その、歌は、俺と、殷だけの、ものだ。
誰にも、汚させはしない。
そして、何よりも。
この、少女の、その、怯えた瞳。それは、かつて、自分が、絶望の淵にいた時の、自分自身の、瞳と、同じだった。
彼の、心の、奥底で、眠っていたはずの「憐憫」という、感情が、激しい、怒りと、共に、蘇った。
彼は、立ち上がった。
そして、胡曲晋の、前に、立ちはだかった。
「…局長。そのくらいで、勘弁してやっていただけませんか」
その声は、静かだったが、部屋中の、空気を、凍りつかせるほどの、威圧感を、帯びていた。
「な、なんだ、青木社長。座ってくださいよ。これから、いいところじゃ、ありませんか」
胡曲晋は、狼狽した。
義成は、笑った。それは、氷の、笑みだった。
「この娘は、私が、買ったはずだ。私の、商品に、許可なく、手出しをするのは、この街の、ルール違反では、ないのですかな?」
彼は、アタッシュケースから、再び、現金の、束を、取り出すと、テーブルの上に、叩きつけた。それは、その場にいる、全員の、今夜の、遊興費を、すべて、支払っても、まだ、お釣りがくるほどの、大金だった。
「さあ、皆さん。今夜は、私からの、おごりだ。どうぞ、好きなだけ、飲んで、歌ってください。ただし…」
彼は、言葉を切り、部屋中の、人間を、一人一人、ゆっくりと、見渡した。「この娘には、もう、指一本、触れるな。次に、触れた時は…」
その、瞳。
それは、龍の、瞳だった。
逆らう者、すべてを、焼き尽くす、地獄の、業火を、宿した、瞳。
胡曲晋も、村井も、その場にいた、誰もが、声も出せずに、固まっていた。
義成は、呆然と、立ち尽くしている、容児の手を、掴むと、彼女を、引きずるようにして、部屋を、後にした。
その夜、義成は、容児を、ホテルの、別の部屋に、泊まらせた。
そして、翌朝、彼は、彼女に、別れを、告げた。
「…二度と、会うことは、ない」
彼は、アタッシュケースから、もう一つの、封筒を、取り出した。中には、彼女が、不自由に暮らせるだけの、大金が、入っていた。
「この金で、故郷に、帰れ。そして、二度と、体を、売るな。自分の、ために、生きろ。これは、命令だ」
「…どうして…?」
容児は、涙を、流していた。「どうして、私なんかに、ここまで、してくれるの…?」
「…お前の中に、俺が、守らなければならなかった、人の、面影を、見た。ただ、それだけだ。これは、俺の、自己満足だ。俺の、贖罪だ」
義成は、そう、言い放つと、彼女に、背を向けた。
「さようなら、楚容児」
それが、彼が、彼女に、かけた、最後の、言葉だった。
龍は、勝手に一人の、か弱き、魂を、救った。
だが、その、行為は、彼の、心を、癒すどころか、さらに、深い、矛盾の、淵へと、沈めていった。
彼は、闇に、生きる、怪物。
だが、その、怪物の、心には、消すことのできない、光の、記憶が、焼き付いている。
その、光と、闇の、狭間で、彼の、魂は、引き裂かれ続けていた。




