3. 獣の渇望、偽りの影
義烏の、夜空は、ネオンと、スモッグで、濁っていた。星は、一つも、見えない。
グランドハイアットホテルの、最上階。プレジデンシャルスイートの、広すぎるリビングで、義成と、楚容児は、二人きりで、向かい合っていた。
部屋には、気まずい、沈黙が、流れていた。
容児は、ソファの、端に、小さな、人形のように、縮こまって、座っている。彼女は、目の前の、この、奇妙な、日本人客が、何を、考えているのか、計りかねていた。
あの、カラオケクラブで、彼は、胡曲晋の、目の前で、札束を、叩きつけた。彼女が、一年、働いても、手に、できないほどの、大金を。そして、彼女を、無言で、この、天国のような、ホテルへと、連れてきた。
だが、彼は、部屋に入ってから、彼女に、指一本、触れようとしない。ただ、黙って、高価な、ウイスキーを、グラスに注ぎ、飲み干すことを、繰り返しているだけだ。
その、横顔は、深い、苦悩に、歪んでいた。
「…あの…」
容児は、たまらずに、口を開いた。「お客様…私は、どうすれば…?」
義成は、その声で、はっと、我に返った。彼は、ゆっくりと、彼女の方へ、顔を向けた。
その、瞳。
容児は、息を飲んだ。
その瞳は、もはや、人間の、ものではなかった。傷つき、飢えた、一匹の、獣の、瞳。そこには、抑えきれないほどの、渇望と、そして、底なしの、悲しみが、同居していた。
「…歌って、くれないか」
義成は、掠れた声で、言った。「もう一度。さっきの、歌を」
容児は、戸惑いながらも、頷いた。
そして、彼女は、再び、あの、哀切な、朝鮮の、民謡を、歌い始めた。
その、歌声が、引き金となった。
義成は、まるで、呪縛から、解き放たれたかのように、ソファから、立ち上がると、彼女の、細い、腕を、掴んだ。
「あっ…!」
彼は、彼女を、乱暴に、引き寄せると、その、小さな、唇を、力任せに、奪った。ウイスキーの、匂いと、彼の、熱い、吐息が、彼女の、すべてを、包み込む。
それは、キスというよりも、魂を、吸い取ろうとするかのような、激しい、行為だった。
彼は、彼女を、抱きかかえると、キングサイズの、ベッドへと、運び込んだ。そして、獣のように、彼女の、その、安っぽいドレスを、引き裂いた。
現れた、若く、しかし、貧しい、生活の、中で、しなやかに、鍛えられた、裸体。
義成は、その、肌に、顔を、埋めた。そして、まるで、赤ん坊が、母の、乳を、求めるかのように、その、小さな、乳房に、吸い付いた。
「…殷…」
彼の、唇から、その、名前が、漏れた。
「殷…会いたかった…なぜ、俺を、一人に、したんだ…!」
彼は、泣いていた。
大の、大人が、子供のように、声を、殺して、泣いていた。
容児は、彼の、その、大きな、背中を、ただ、黙って、抱きしめることしか、できなかった。
彼女は、すべてを、理解した。
この人は、自分を、見ているのではない。自分の、向こう側にいる、別の、誰かを、見ているのだ。
自分は、ただの、身代わり。
その、事実に、胸が、ちくりと、痛んだ。だが、それ以上に、目の前の、この、傷ついた、獣のような、男への、どうしようもないほどの、憐れみが、彼女の、心を、支配した。
彼女は、そっと、彼の、涙を、指で、拭った。
「…大丈夫よ」
彼女は、囁いた。「私が、ここに、いるから。今夜だけは、私が、あなたの『殷』に、なってあげる」
その、言葉が、彼の、最後の、理性の、箍を、外した。
彼は、咆哮した。
そして、彼女の、中に、その、激しい、悲しみと、渇望の、すべてを、叩きつけた。
それは、セックスというよりも、失われた、過去を、取り戻そうとする、魂の、慟哭だった。
彼は、何度も、何度も、彼女の、中で、果てた。
そのたびに、彼は、殷の、名前を、呼び続けた。
容児は、その、激しい、愛撫に、身を任せながら、彼の、背中に、そっと、腕を回した。
彼女の、体は、痛んだ。
だが、不思議と、心は、穏やかだった。
自分のような、場末の、女が、誰かの、役に、立てる。誰かの、深い、悲しみを、少しでも、和らげることが、できる。
その、事実に、彼女は、生まれて初めて、自分自身の、存在価値を、感じていたのかもしれない。
夜が、明ける頃。
嵐が、過ぎ去り、義成は、疲れ果てて、彼女の、腕の中で、眠りに、落ちていた。
その、寝顔は、驚くほど、無防備で、子供のようだった。
容児は、その、寝顔に、そっと、キスを、落とした。
それは、彼女の、生まれて、初めての、本物の、恋の、始まりだったのかもしれない。
報われることのない、あまりにも、切ない、恋の。
一夜が、明けた。
朝日が、スイートルームに、差し込んでくる。
義成は、激しい、頭痛と、そして、それ以上に、激しい、自己嫌悪と、共に、目を覚ました。
隣には、容児が、すぅすぅと、穏やかな、寝息を、立てていた。
昨夜の、狂態が、蘇る。
(…俺は、何て、ことを…)
彼は、自分の、最も、神聖な、記憶を、金で買った、女で、汚してしまった。殷への、冒涜。そして、目の前で、無垢に眠る、この、少女への、冒涜。
彼は、静かに、ベッドから、抜け出すと、シャワーを浴び、服を着た。
そして、テーブルの上の、メモ用紙に、何かを、書き付けると、アタッシュケースから、現金の、分厚い、束を、取り出し、その横に、置いた。
彼が、部屋を、出ようとした、その時。
「…もう、行っちゃうの?」
容児が、目を覚ましていた。
「…ああ」
義成は、彼女に、背を向けたまま、答えた。
「テーブルの上に、金が、置いてある。昨日の、倍だ。それで、何もかも、忘れてくれ」
「…忘れないわ」
容児の声は、震えていた。「絶対に、忘れない。あなたの、涙も、あなたの、痛みも」
「…!」
「また、会える?…あなたの、本当の、名前も、知らないけれど」
義成は、何も、答えずに、部屋を、後にした。
彼の心は、ずたずただった。
彼は、この街で、二度と、この少女に、会うことはないだろう。
そう、誓った。
だが、運命は、皮肉だった。
彼の、その、誓いが、破られるまでに、そう、時間は、かからなかったのだ。




