2. 憐憫のカラオケ、朝鮮の歌
胡曲晋との、最初の、接触は、予想通り、ベタで、そして、下品なものだった。
彼は、典型的な、地方官僚だった。肥え太った、体に、サイズの合わない、ブランド品の、スーツ。指には、これみよがしに、金の、指輪が、光っている。彼の、周りには、常に、地元の、成金の、商人たちが、蝿のように、群がっていた。
「いやあ、青木社長!ようこそ、義烏へ!お待ちしておりましたぞ!」
胡曲晋は、義成の手を、脂ぎった、手で、握ると、馴れ馴れしく、その、背中を、叩いた。
その夜、義成は、彼らに、引きずられるように、市内で、最も、豪華とされる、レストランの、VIPルームへと、連れていかれた。円卓の上には、フカヒレ、アワビ、ツバメの巣といった、これ見よがしの、高級食材が、次々と、並べられる。そして、アルコール度数50度を超える、白酒が、まるで、水のように、消費されていった。
義成は、完璧な、客を、演じた。
彼は、胡曲晋の、退屈な、自慢話を、心底、感心した、という顔で聞き、勧められるままに、白酒を、呷った。彼の、驚異的な、酒の強さは、その場の、全員を、驚かせ、そして、感心させた。
「はっはっは!青木社長は、見かけによらず、豪傑ですな!気に入った!よし、二次会へ、行くぞ!」
彼らが、次に向かったのは、カラオケだった。だが、それは、義成が、想像していたような、きらびやかな、高級クラブでは、なかった。
そこは、街の、中心に聳え立つ、巨大な、雑貨卸売市場「国際商貿城」の、上階の、一角にあった。薄暗い、廊下の、両側に、安っぽい、個室が、並び、どこからともなく、音程の外れた、歌声と、安酒の、匂いが、漂ってくる。
彼らが、通されたのは、その中でも、特に、場末感の、漂う、一軒の、韓国系の、カラオケクラブだった。部屋は、タバコの煙で、霞み、テーブルの上には、剥き出しの、ナッツと、キムチが、置かれている。
「まあ、青木社長。ここは、我々、地元の人間しか、知らない、穴場でしてな」
胡曲晋が、得意げに、言った。「ここの、小姐たちは、皆、北から来た、朝鮮族でして、素朴で、従順で、そして、何より、値段が、安い。しかも、全員、『持ち帰り』が、可能という、わけですな。はっはっは」
下品な、笑い声。商人たちも、それに、同調して、いやらしく、笑った。
やがて、部屋に、数人の、小姐たちが、入ってきた。皆、一様に、派手な、化粧をし、体に、フィットした、安っぽい、ドレスを、着ている。その、笑顔は、完全に、仕事用の、作り物だった。
その中で、一人だけ、部屋の隅に、所在なげに、立っている、少女がいた。
年の頃は、まだ、二十歳そこそこだろうか。他の女たちのような、派手な化粧はしておらず、その顔立ちは、素朴で、しかし、どこか、芯の強さを、感じさせた。彼女の、瞳は、この、薄汚れた、空間には、不釣り合いなほど、澄んでいた。だが、その、奥には、深い、諦めと、そして、消すことのできない、生命力の、光が、同時に、宿っている。
彼女が、楚容児だった。
「おい、ヨンア!突っ立ってないで、こっちへ来い!」
胡曲晋が、手招きする。容児は、びくりと、肩を震わせると、おずおずと、彼の隣に、座った。
「こいつは、まだ、この店に来たばかりの、新入りでしてな。歌が、上手いんですよ。おい、ヨンア、何か、歌え。お前の、故郷の歌を」
容児は、俯いたまま、しばらく、躊躇していた。だが、胡曲晋に、太腿を、いやらしく、撫でられ、観念したように、マイクを、手にした。
そして、歌い始めた。
それは、義成が、一度も、聞いたことのない、朝鮮の、古い、民謡だった。
その、メロディは、どこまでも、哀しく、そして、どこまでも、美しかった。故郷を、遠く離れ、愛する人に、会うことも、叶わない、女性の、嘆きを、歌った、歌。
その、声は、か細かったが、驚くほど、よく通り、この、猥雑な、部屋の、空気を、一瞬にして、浄化していくようだった。
義成は、その歌声に、聴き入っていた。
そして、彼の、心の、奥底で、固く、閉ざされていた、記憶の扉が、何の、前触れもなく、激しい音を立てて、こじ開けられた。
(…ああ、この歌…)
李殷。
彼の、魂の、すべてを、捧げた、ただ一人の、女性。
彼女も、朝鮮の、血を、引いていた。そして、まだ、二人が、日本で、出会ったばかりの頃。慣れない、異国の地で、不安な夜を、過ごしていた、彼の、枕元で。彼女は、よく、この歌を、子守唄のように、そっと、口ずさんでくれたのだ。
それは、彼女の、母親が、彼女に、歌ってくれた、思い出の歌なのだと、言っていた。
その、あまりにも、甘く、そして、あまりにも、切ない、記憶。
彼の、脳裏に、殷の、すべてが、鮮烈に、蘇る。
彼女の、柔らかな、肌の、感触。
彼女の、髪から香る、フローラルな、シャンプーの匂い。
彼の、耳元で、囁くような、あの、優しい、歌声。
「…う…」
義成の、口から、呻き声が、漏れた。
彼の、冷静な、仮面が、音を立てて、崩れ落ちていく。激しい、動揺と、そして、失われた、過去への、どうしようもないほどの、渇望が、彼の、全身を、支配した。
胡曲晋も、他の、商人たちも、誰も、彼の、その、変化には、気づいていない。彼らは、ただ、容児の、美しい歌声に、聞き惚れているだけだった。
歌が、終わった。
部屋に、一瞬の、静寂が、訪れる。
その、静寂を、破ったのは、義成の声だった。
その声は、彼自身が、驚くほど、かすれていた。
「…胡局長」
「ん?何ですかな、青木社長?」
「…その、娘さんを、今夜、私が、買いたい」
その言葉は、もはや、問いかけでは、なかった。
逆らうことを、許さない、絶対的な、命令の、響きを、持っていた。




