6. 共犯者の、祝杯
北京の夜景を、一望する、張書記の、プライベート・クラブハウス。その最上階、皇帝の私室と呼ぶにふさわしいVIPルームで、青木義成と李霃帘は、二人きりで、祝杯を挙げていた。
董苅という狂犬は、自らが掘った墓穴の、さらに底深くへと消えた。古い主君・王書記の亡霊も、河北省の権力地図から完全に拭い去られた。勝利の果実は、熟しきって、今、二人の手の中にある。
シャンデリアの水晶が砕け散って溶け込んだかのように、ドン・ペリニヨンの黄金色の泡が、バカラのグラスの中で、きらきらと輝いている。
「…乾杯。我々の、新しい、門出に」
李霃帘は、その赤いルージュの唇で、妖艶に微笑んだ。その微笑みは、もはや彼女の鎧ではない。勝利を手にした女帝の、純粋な歓喜と、目の前の男への、隠しきれない期待の表れだった。この一連の闘争を経て、彼女は以前よりもさらに美しく、そして触れれば切れそうなほど、危険な輝きを増していた。
「乾杯。君の、その、したたかさには、感服するよ」
義成は、グラスを合わせた。彼の声は、いつものように穏やかだったが、その瞳の奥には、ゲームを終えたチェスプレイヤーの、冷たい満足感が宿っている。
「あら、褒めてくれるの?すべて、あなたが描いた筋書き通りじゃ、ないの」
彼女は、しなやかな仕草でソファに深く身を沈め、長い脚を組んだ。シルクのチャイナドレスのスリットが、大胆に開き、磨き上げられた太腿が、蠱惑的に覗く。
「シナリオは、僕が書いた。だが、それを、完璧に演じきったのは、君の才能だ。王書記を、あれほど見事に『処理』し、張書記を、あれほど短時間で、手懐けるとは。君は、最高の女優だよ、ディアオリェン」
「ふふ、嬉しいわ。最高の監督さんに、そう言ってもらえるなんて」
二人の間に流れる空気は、もはや単なる共犯者のそれではない。巨大な犯罪を成し遂げた者だけが共有できる、倒錯的な一体感。そして、互いの能力と、その底知れぬ闇への、絶対的なリスペクト。
だが、李霃帘の心の中では、その「リスペクト」とは、まったく別の感情が、静かに、しかし、抑えがたいほどの熱量をもって、芽生え始めていた。
長年、彼女にとって、男と寝ることは、取引だった。
権力という階段を、一段登るための、入場券。情報を引き出すための、麻酔薬。自分の価値を、誇示するための、ショーケース。その行為に、感情が、入り込む余地はなかった。彼女は、自分の体を、最も効率的な「武器」として、冷静に使いこなしてきた。
王書記との、長年の関係も、そうだった。そこにあったのは、父性への、甘えと、権力への、依存であり、決して、女としての恋情ではなかった。
だが、義成は、違った。
初めて、彼に、抱かれた夜。それは、彼の策略に、嵌められた、屈辱の夜だったはずだ。だが、彼女は、その、敗北の中に、生まれて初めて、魂が震えるほどの、快感を、見出してしまった。
彼との、セックスは、取引ではなかった。それは、闘いだった。互いの、魂の、最も深い部分を、剥き出しにして、ぶつけ合う、真剣勝負。彼の、圧倒的な、支配力。彼の、こちらの、すべてを見透かすような、知性。そして、その、冷徹な仮面の奥に、時折、垣間見える、深い、孤独の影。
その、すべてが、彼女の、鋼鉄の、プライドを、心地よく、破壊し、彼女の、凍てついていた、女としての、心を、溶かしていった。
彼と、体を重ねるたびに、彼女は、自分が、ただの、権力者・李霃帘ではなく、一人の「女」に、戻っていくのを、感じていた。そして、その、感覚に、戸惑い、恐怖し、しかし、抗いがたいほどに、惹かれている自分に、気づいていた。
義成に、恋をする?
この私が?
馬鹿な。あり得ない。それは、私の、弱さだ。それは、ゲームプレイヤーとして、致命的な、欠陥だ。
そう、必死に、自分に、言い聞かせてきた。
だが、もう、ごまかしきれなかった。
「…で、これから、どうするの、私の、龍?」
彼女は、ソファの上で、その身を、義成に、寄せた。「張書記も、あなたに、首ったけよ。あなたと、私がいれば、この国の、経済の、半分は、動かせるわ」
「その通りだ」
義成は、彼女の、完璧な、顎のラインを、指で、くい、と持ち上げた。その瞳は、冗談めかしてはいるが、笑ってはいなかった。「だが、その前に、君には、僕への、報酬を、払ってもらわなければ、ならない」
「報酬?」
「ああ。僕は、君を、地獄から、救い出した。君は、僕に、命の、借りがある。その、借りを、今夜、君の、その、体で、返してもらう」
その、傲慢なまでの、言葉。
以前の、彼女ならば、あるいは、不敵な笑みで、切り返していたかもしれない。
だが、今の、彼女の心臓は、まるで、少女のように、大きく、そして甘く、跳ね上がった。
彼は、私を、求めている。
取引としてではなく。ただ、一人の、女として。
その、事実が、彼女の、最後の、理性の、堰を、決壊させた。
「…ええ、喜んで」
その声は、彼女自身が、驚くほど、素直で、そして、潤んでいた。
彼女は、彼の、前に、跪いた。
言われてもいないのに。
彼女は、まるで、渇ききった旅人が、聖なる泉の水を、求めるかのように、彼の、その、硬く、熱を帯びた、龍の象徴を、自らの、赤い唇で、恭しく、そして、貪欲に、迎え入れた。
それは、もはや、奉仕ではなかった。彼女自身の、抑えきれない、渇望の発露だった。
彼女は、持てる、すべての、技術と、そして、新たに、芽生えた、愛情を、その、口づけに、込めた。彼の、呻き声が、快感と、驚きに、満ちているのを、感じながら、彼女は、至上の、幸福に、包まれていた。
彼女は、彼を、ベッドへと、誘った。
そして、その夜、彼女は、彼が、想像すら、していなかった、もう一つの、顔を、見せた。
彼女は、彼の、全身を、まるで、聖地を、巡礼するかのように、その、唇と、舌で、探り、愛撫し尽くした。彼の、鍛え上げられた、胸板を、首筋を、そして、彼が、かつて、奈落の底で、受けた、古傷の一つ一つに、まるで、その、痛みを、吸い取るかのように、優しく、口づけを、落としていった。
義成は、戸惑っていた。
これは、あの、傲慢で、支配的な、女帝・李霃帘では、ない。
これは、ただ、ひたむきに、愛する男に、すべてを、捧げようとする、一人の、健気な、女の姿だった。
そして、二つの体が、激しく、一つに、なった時。
李霃帘は、何度も、何度も、彼の名を、叫んだ。
それは、もはや、演技ではなかった。魂の、奥底からの、叫びだった。
嵐が、過ぎ去り、二人が、汗と、体液に、まみれて、ベッドに、倒れ込んでいる時。
義成は、満足げに、そして、どこか、疲れたように、彼女の、髪を、優しく、撫でた。
「…どうした、ディアオリェン。今夜の君は、まるで、別人みたいじゃないか」
「…うるさいわね」
彼女は、彼の胸に、顔を、うずめたまま、ぶっきらぼうに、答えた。
そして、その瞬間。
彼女の、瞳から、一筋の、熱い涙が、こぼれ落ち、彼の、肌を、濡らした。
彼には、見せたくなかった、涙。
彼には、決して、知られたくなかった、自分の、弱さ。
(ああ…だめだ…)
彼女は、心の、中で、悲鳴を、上げていた。
(私は、この男に、完全に、堕ちてしまった…)
この、愛情は、いつか、自分を、滅ぼすかもしれない。
この、想いは、ゲームの、中で、最大の、アキレス腱と、なるかもしれない。
その、恐怖。
そして、それを、遥かに、凌駕する、彼を、愛おしいと、思う、この、抗いがたい、感情。
彼女は、義成への、想いが、自分の、中で、大きく、昇華していくことに、怯えさえ、感じていた。
だが、もう、後戻りは、できない。
彼女は、彼の、胸に、さらに、強く、顔を、押し付けた。そして、彼の、心臓の、音を、聞きながら、静かに、誓った。
この、男を、手に入れる。
どんな、手段を、使ってでも。
たとえ、それが、彼自身を、そして、私自身を、破滅させる、道であったとしても。
女帝の、心に、灯った、恋という、名の、炎。
それは、やがて、この、国を、そして、二人の、運命を、焼き尽くす、巨大な、業火と、なっていくことを、まだ、誰も、知らなかった。
北京の夜は、深く、そして、二人の、歪んだ、愛のように、どこまでも、甘く、そして、危険な、香りを、放っていた。




