5. 狂犬狩り
権力の頂点に立った者が、その座から転げ落ちる速度は、光よりも速い。ましてや、その権力が、他者の屍の上に築かれた、砂上の楼閣であったならば。
董苅の失脚は、まさに、それだった。
昨日までの英雄は、今日、党と国家への裏切り者という烙印を押された。彼が追い落とした政敵たちの、匿名の告発文という形を取った、表の張書記と裏の義成が仕掛けた完璧な罠。董苅自身の、とんでもない汚職した額と、外国籍を得た愛人と隠し子のスキャンダル。その証拠は、あまりにも完璧で、動かしようがなく、党中央は、激怒し、そして戦慄した。綱紀粛正を司るべき男が、その実、誰よりも腐敗していたという事実を敵対派閥から抗争奪権のカードの一枚として切られたのだ。
董苅は、すべての地位と名誉を、一瞬にして剥奪された。そして、彼が連行された先は、皮肉にも、彼自身が、その「効率性」を誇っていた、あの場所だった。
北京郊外、地図には載らない、秘密の「黒監獄」。
かつて、青木義成が、人間としての尊厳を、一片一片、引き剥がされた、あの、奈落の底。
皆よ、想像してほしい。
自らが設計し、完成させ、そして、幾人もの人間を、その中で「処理」してきた、完璧なまでの、絶望製造システム。その、システムの、中に、今度は、自分が、被験者として、放り込まれる、という、恐怖を。
董苅は、その、すべてを知っていた。
この、独房の、壁の厚さも、扉の、鋼鉄の、重さも。
監視カメラの、死角が、どこにも、存在しないことも。
そして、これから、自分の身に、何が、起きるのかも。
彼が、入れられたのは、義成がいた、あの独房ではなかった。
さらに、その、地下深くに、存在する、特別な、一室。
そこには、「鉄椅子」は、なかった。
代わりに、部屋の中央に、ぽつんと、一つの、スピーカーが、設置されているだけだった。
独房の扉が、重い音を立てて、閉ざされた、その瞬間から、それは、始まった。
スピーカーから、流れ始めたのは、音、だった。
それは、彼が、かつて、義成の、精神を、破壊するために、使った、あの、不協和音。金属を、引きずる音。赤ん坊の、泣き叫ぶ声。女の、悲鳴。
だが、今回は、何かが、違った。
その、悲鳴の中に、聞き覚えのある、声が、混じっている。
「やめて…助けて…!」
それは、彼が、かつて、汚職の証拠を、脅し取るために、罠にはめた、地方官僚の、妻の声だった。
「お父さん…!」
それは、彼が、口封じのために、「事故」に見せかけて、消した、ジャーナリストの、幼い、娘の声だった。
そして、何よりも、彼の、心を、抉ったのは。
「董苅様…どうして…?」
それは、彼が、権力闘争の中で、切り捨てた、かつての、愛人の、声だった。
彼が、その、キャリアの、中で、踏みつけ、切り捨て、そして、破滅させてきた、無数の、人間の、声、声、声。
それらが、テープで、編集され、無限に、ループ再生される。
「違う!これは、幻聴だ!俺を、騙すための、罠だ!」
董苅は、耳を塞ぎ、絶叫した。
だが、その声は、分厚い壁に、吸い込まれて、消えるだけだった。
数日が、経った。
食事は、床の、小さな、投入口から、投げ込まれる、固い、パンと、濁った水だけ。
眠りは、許されない。彼が、意識を、失いかけると、どこからともなく、冷たい、水が、浴びせかけられる。
彼の、精神は、急速に、蝕まれていった。
そして、拷問は、次の、ステージへと、移行した。
部屋の壁が、突如、巨大な、スクリーンへと、変わった。
そこに、映し出されたのは、映像だった。
彼が、これまで、拷らえ、尋問してきた、人々。
鉄椅子に、縛り付けられ、電気ショックに、身をよじる、男。
爪の間に、竹串を、差し込まれ、血の涙を、流す、女。
それは、彼が、自らの、功績として、記録させ、保管していた、拷問の、記録映像だった。
「ああ…あああ…やめろ…!」
彼は、その、映像から、目を、逸らそうとした。
だが、その時。
映像の中の、拷問されている、男の顔が、自分の、父親の、顔に、変わった。
絶叫する、女の顔が、自分の、母親の、顔に、変わった。
そして、泣き叫ぶ、子供の顔が、彼が、海外に、隠している、自分の、愛する、息子の、顔に、見えた。
幻覚。
幻聴。
現実と、悪夢の、境界線が、完全に、溶けて、いく。
彼は、もはや、自分が、誰で、ここが、どこなのかも、わからなくなっていた。
「どうだ、董苅君」
スピーカーから、響く、その声は、張書記の、声だった。「君が、作り上げた、この、素晴らしい、システムは、実に、効率的だな。人間の、心を、壊すためには、物理的な、暴力など、必要ない。ただ、その人間が、最も、見たくないものを、見せ、聞かせ続けるだけで、いい」
その、声は、静かだったが、絶対的な、支配者の、響きを持っていた。
「…張書記…!お、俺は、党に、忠誠を、尽くしてきた!あなた様にも…!」
「忠誠だと?笑わせるな」
声は、冷たく、彼を、突き放した。「君が、尽くしたのは、君自身の、野心に対してだけだ。党の、規律を、私物化し、同志を、陥れ、自らの、権力を、肥大化させてきた。君のような、癌細胞は、早期に、切除しなければ、党そのものを、蝕むことになる」
それは、紛れもない、死の、宣告だった。
「お、お待ちください!私には、まだ、使い道が…!上海閥の、残党の、情報を…!」
「もう、必要ない」
張書記の、声は、続いた。「君の、後始末は、新しい、有能な、同志が、引き継いでくれる。君の、役目は、終わったのだよ。…ああ、そうだ。一つ、言い忘れていた」
次の瞬間。
スクリーンに、映し出されたのは、李霃帘の、妖艶な、笑顔だった。
彼女は、まるで、テレビの、ニュースキャスターのように、微笑みながら、語りかけてくる。
「董苅君、ごきげんよう。李霃帘ですわ。あなたが、かつて、私を、嵌めようとした、罠。覚えていらっしゃるかしら?その、お礼を、まだ、していなかったわね。あなたが、今、味わっている、その、素晴らしい、体験は、私から、あなたへの、ささやかな、プレゼントよ。ゆっくりと、楽しんでちょうだい。あなたの、その、醜い、魂が、完全に、溶けて、なくなるまでね」
その、美しい、悪魔の、微笑み。
それが、董苅の、理性を、断ち切る、最後の、一撃となった。
「うわあああああああああああああああ!!!!!!!」
彼は、獣のように、咆哮し、自らの、頭を、コンクリートの、壁に、何度も、何度も、打ち付け始めた。
監視モニターの、向こう側で、張書記は、その、醜悪な、光景を、満足げに、見つめていた。
これが、権力闘争の、結末だ。
勝者は、すべてを、手に入れ、敗者は、人間としての、尊厳さえも、奪われ、消え去っていく。
そこに、人権という、概念は、存在しない。
あるのは、ただ、力が、支配する、冷徹な、掟だけ。
これが、この、党の、本質。
邪悪という、言葉では、もはや、表現しきれない、巨大な、システムの、現実なのだ。
数日後。
董苅は、独房の中で、「首を吊って、自殺している」のが、発見された。
厳重な、監視体制の下、彼が、どうやって、首を吊るための、ロープを、手に入れたのか。
そして、そもそも、何も、突起物のない、独房で、どうやって、首を吊ることが、できたのか。
その、謎を、追及する者は、誰も、いなかった。
公式発表は、ただ、一つ。
「党への、裏切りを、悔い、自ら、命を、絶った」
それだけだった。
一つの、功績ある、党幹部が、まるで、存在しなかったかのように、この世から、消去された。
彼の、家族も、友人たちも、皆、彼の、存在を、口にすることを、禁じられた。
まるで、最初から、この世に、存在しなかったかのように。
共産党体制という、名の、巨大な、魔物は、自らの、体内に、生じた、癌細胞を、こうして、いとも、簡単に、処理していく。
そして、その、魔物は、今日も、明日も、新たな、生贄を、求め続けるのだ。
その、おぞましい、連鎖が、断ち切られる、日は、来るのだろうか。
少なくとも、今の、この、国では、その、兆しさえも、見えてはいなかった。




