2. 女帝、崖っぷちに立つ
河北省、石家荘市。
李霃帘は、焦燥と、そして屈辱の中にいた。
北京の空気が日に日にきな臭くなっていることを、彼女の鋭い政治的嗅覚は敏感に感じ取っていた。董苅の手が、確実に自分たちの喉元に迫ってきている。
「あなた様、董苅の動きが尋常ではありません。奴はオリンピックを隠れ蓑に、我々を完全に潰すつもりです。今、手を打たなければ、手遅れになります!」
彼女は何度もパトロンである王書記に警告を発した。だが、王書記は老いていた。長年の権力の座は彼の危機察知能力を鈍らせ、その判断力を曇らせていた。
「何を騒ぐ、ディアオリェン。董苅など、ただの若造にすぎん。この非常時に、党内の大きな対立を表面化させるような愚かな真似はすまい」
その楽観的な見通しは、致命的な誤りだった。
董苅はすでに、王書記と李霃帘が長年にわたって主導してきたレアアース密売の決定的な証拠を掴みかけていた。彼は河北省の税関や港湾局の内部に協力者を作り、金の流れと物の流れ、その両方を詳細に内偵させていたのだ。
李霃帘の元に、彼女自身が持つ情報網からも、断片的な、しかし致命的な情報がもたらされ始めた。董苅が、自分の腹心だったはずの何人かの役人を、弱みを握って寝返らせていること。税関のデータの一部が、不正なルートで北京へ流出していること。
彼女は、巨大な網が、ゆっくりと、しかし確実に、自分たちを絞め殺そうとしているのを感じていた。王書記という、これまで自分を守ってきた巨大な傘は、もはや嵐を防ぐ役には立たない。むしろ、その傘ごと、雷に打たれようとしている。
そして、今、この危機的状況で、最も頼りになるはずの、あの龍が、いない。
青木義成。
彼と、連絡が取れない。マカオでの感動な再会を設計実施以降、彼は完全に沈黙を守っていた。
「義成…あなた、今、どこで、何をしているの…?まさか、私を見捨てたというの…?」
彼女は、執務室で一人、グラスの赤ワインを揺らしながら呟いた。不安が、嫉妬が、そして、これまで認めたくなかった彼への「依存」が、彼女の冷静さを奪っていく。
私は、李霃帘。男たちを支配し、その頂点に立ってきた女帝。だが、あの男の前でだけ、私は、ただの「女」になる。あの、孤独な龍を、繋ぎとめておけるのは、私だけだと思っていた。だが、違ったのか。彼にとって、私もまた、数多いる女たちの一人に過ぎなかったのか。
その時、暗号化された、一本の回線が、彼女の、秘密の携帯電話を、震わせた。
義成からだった。
その声は、以前よりも、低く、そして、重い響きをしていた。
「…ディアオリェン。ゲームの、時間だ」




