第三章 権力という名の魔物 1. 北京の、華麗なる仮面
"All political power is a trust."
(全ての政治権力は、信託である)
– Charles James Fox/チャールズ・ジェームズ・フォックス
1. 北京の、華麗なる仮面
2008年、8月8日。
北京の夜空が、一万発の花火によって、真昼のように照らし出された。国家体育場、通称「鳥の巣」では、古代中国の、壮大な歴史絵巻を、最新のテクノロジーで再現した、息を飲むほどに、スペクタクルな、開会式が、繰り広げられていた。
二〇〇八年、北京オリンピック。
それは、改革開放から三十年、中国という、眠れる龍が、完全に、覚醒し、その、圧倒的な、国力と、自信を、全世界に、見せつけるための、国家的な、祭典だった。
世界中の、指導者たちが、貴賓席に、並び、その、華麗なる、ショーに、惜しみない、拍手を、送っている。テレビの前の、何十億という、人々が、この、新しい、超大国の、誕生の、瞬間に、熱狂していた。
だが、その、華やかな、光の、裏側で。
北京の、闇は、より、深く、そして、冷たく、その、濃度を、増していた。
この、オリンピックという、巨大な、国家的、プロジェクトは、同時に、中国共産党内部の、熾烈な、権力闘争の、最終決戦の、舞台でもあったのだ。
当時、党の、最高権力者の座にあったのは、胡錦濤。彼の、率いる「共青団」派閥に対し、江沢民をゴッドファーザーとする「上海閥」と「太子党」の連合軍が、牙を剥いていた。そして、その闘争の最前線で、政敵を排除する狂犬としての役割を担っていたのが、中央規律検査委員会の若き野心家、董苅だった。
董苅は、青木義成という謎の日本人を取り逃がしたあの失態を、決して忘れてはいなかった。彼は、執拗に義成の背後関係を調査し続け、ついに、彼と李霃帘、そしてそのパトロンである河北省の絶対的権力者・王書記との密接な繋がりを突き止めた。彼の次の標的は、明確だった。
「…見つけたぞ、狐の尻尾を」
北京の秘密執務室で、董苅は部下から提出された報告書を読みながら、サディスティックに微笑んだ。オリンピックという祝祭の仮面の下で。国家の威信という美しいカーテンの裏側で。権力という名の魔物たちが、血で血を洗う壮絶な潰し合いを始めようとしていた。
そして、その嵐の中心へと、一人の龍が、再びその身を投じようとしていたことを、まだ誰も、知らなかった。




