17 オクノ
新伍は、大二に頼んでオクノの部屋に連れて行ってもらった日のことを、八重子に話して聞かせた。
*
大二の案内で訪れたのは、四畳半の小さな部屋だった。
建て付けの悪い扉、毀れたところを木片で継いだ壁。い草の毛羽立った畳はくすんでいて、金銭的に余裕のない暮らしなのだと一目で分かる。
だが不潔ではない。ボロ屋なりに、隅々まで掃除が行き届いている。
その真ん中で、畳に擦り付けるように低く頭を垂れた女性がいた。
彼女がオクノだ。
「この度はご迷惑をおかけ致しまして、誠に申し訳ございません」
腰から頭まで真っ直ぐに伸びた背筋の美しさは、かつて置屋で仕込まれたものだろうか。凛とした緊張感が、指の先まで漲っている。
しかし、それにしても何故新伍が謝られるのか分からない。
「あの、オクノさん? 顔を上げてください」
「いいえ、そういうわけには参りません! 私の身勝手で胡条財閥の車夫、堤さまに度々、ご迷惑をおかけしたこと、私ごときが頭を下げてお許しいただけるとは思っておりません」
大二は事前に何と説明したのか。どうやら新伍のことを、胡条財閥の使者だと思ったらしい。
「すべては私の責任ですあり、堤さんは憐れな女に同情して、親切にしてくださっただけ。今後、一切関わらないとお約束いたしますので……」
「オ、オクノ?!」
オクノがそんなことを言い出すとは、思ってもみなかったらしい。大二がギョッとして、目を白黒させている。
「待ってください。別に僕は、胡条財閥の使いではありません」
「しかし五島さまは、お嬢さまの婚約者だと……」
どうぞ頭を上げてください、と改めてお願いすると、オクノが恐る恐る、半分だけ身体を起こした。
「確かに、僕の立場は胡条財閥と無関係とは言えません。ですが、今日ここに来たのは、オクノさんにお伺いしたいことがあるからです。胡条財閥とは関係のない、個人的な関心です」
新伍の説得に、オクノは訝りながらも、しっかりと身体を起こした。表情は濃い戸惑いの色を浮かべたままだ。
「私に聞きたいこととは何でしょうか?」
「あなたのお子さんの話について教えてください。あなたが産んだ子どもについてです」
オクノが、今度は説明を求めるように、大二の顔を見た。新伍が依頼を受けて子を探していたことを知らないのかもしれない。
オクノの代わりに大二が答えた。
「ですから、五島さん。オクノは先日、その娘が亡くなっていたことを思い出しまして、もう探していただく必要は……」
これ以上、オクノの心を乱さないでくれと言わんばかりの大二を、新伍は遮った。
「僕がお尋ねしたいのは、娘ではなく息子さんの話です」
新伍の言葉にオクノの肩がビクンと震えた。
「……息子?」
大二が眉毛を寄せる。何のことかとオクノと新伍の顔を交互に見た。
大二は、同じ年頃の女の子を見る度に「娘だ」と騒ぐオクノのために、何軒も訪ね歩いた。息子とは何の話だという疑念が、ありありと滲んでいる。
「僕は花街に伝手がなかったので、過去を調べるのに、少々手こずりましたよ。時間がかかりましたが、ようやく分かりました。オクノさん。あなたがかつて産んだのは、娘じゃなくて息子ですよね?」
「どうして、それを……?」
分かったのは、時津のおかげだ。彼は新伍に宣言した通り、あっという間にオクノの過去を調べ上げてきた。
「あなたの子は男の子。だけど、あえて『娘だ』と派手に騒いだのは、自分の子は女の子であると喧伝するためだ。そして、その理由は本当の子どもを守りたかったから、ですよね?」
オクノが「あぁ」とため息をついた。
「そこまで分かっているのですね。では、父親についても、すでにご存知ですか?」
「あなたが騒ぎを起こした時期と場所から、そうではないかとアタリつけた方がいます」
新伍が言うと、オクノの目がスッと細まった。彼女は悲壮で憐れな女ではない。全ては計算だったのだ。
「ちょっと待ってください。五島さん、どういうことですか? その『時期と場所』というのは?」
一人だけ話の展開を理解していない大二が、堪らず口を挟んだ。
「オクノさんの騒動が始まったのは、半年前。そして、その場所を確認すると……」
新伍は懐から地図を取り出した。図上には、いくつかの✕印。
「ここは、すべてオクノさんが『自分の娘がいる』と言った家です。大二さんも覚えがありますよね?」
大二の視線が✕印を順に追う。新伍は一つずつなぞる。
「大二さんが、『辺り一帯を歩けないようになった』と言った通り、これからはすべて、非常に狭い範囲に固まっています。そして、その先にあるのが……」
大きな路面に面した長方形の区画には店の名前が入っていない。ここは、まだ開店したばかりの店ーーー韮崎洋品店だった。
「あなたの息子の父親は、韮崎さんですね?」
「……そうです。韮崎昭一さんです」
「いいえ、違います。あなたが昭一さんだと思っているのは、実際には弟の藤助さんです」
韮崎昭一は、八重子の夫の名だ。韮崎藤助は、兄の『昭一』の名を名乗り、遊郭に出入りしていた。
時津が調べてきたところによると、藤助は、毀誉褒貶の激しい男で、女を物のように無体に扱う。
それ故、遊郭街で歓迎はされていなかった。ただ、金払いが良かったから閉め出されることもなかったようだが。
遊女時代のオクノは、藤助のお気に入りだった。
暴力や暴言の多い藤助を嫌がる女も多く、結局、彼はオクノばかり指名するようになったという。
オクノが騒動を起こしたのは、ちょうど半年前。韮崎洋品店の新店舗の開業準備が始まった時期だ。そして、八重子が騒ぎを起こした家々は、すべて韮崎洋品店と韮崎邸の間を繋ぐように点在している。
「僕はたまたま、別件で韮崎さんの依頼を受けていました。その依頼があったから、そして、同時進行で大二さんの依頼受けていたから、この位置関係に気づいたんです」
「位置関係だけで……? 素人の私には、やや無茶な話に感じますが」
地図を覗き込んだ大二が、疑わしそうに言った。
「オクノさんが『勘違いだった』と撤回した家が1軒あったでしょう?」
「はい。えぇっと、この家です」
地図を傾けると、大二が戸惑いながら例の質屋をさした。✕印のうち、事件のあった韮崎邸に最も近い位置にある。
「大二さんは、ここには足を運んでいないから知らないでしょうが、この質屋の番台に座る番頭さんには、あるクセがありました」
「クセ…ですか? どんな?」
「紙をめくるときに、指を舐めるんです」
右手の親指をピッと立ててみせる。オクノの顔がサッと青ざめた。
「全く同じクセが、韮崎藤助さんにもありました」
韮崎洋品店の展示会に行ったとき、受付で芳名録を見ていた藤助が、同じ仕草をしていた。
「あの番頭さんのクセは、藤助さんを想起させる。オクノさんは関わることを本能的に忌避した。だから撤回したのでしょう?」
「仰るとおりです。あのクセを見て、背筋がゾッとしました」
オクノの背筋がブルリと震えた。余程、藤助との思い出が酷いものなのか、口調からも忌避がありありと感じられた。
「全ては小さな繋がりでした。時期も、位置も、癖も」
桜子が宮前から『遊郭通いの韮崎家の元当主』の話を聞いてきた時、オクノは、藤助もしくは昭一と、何らかの関わりがあるのではないかと考えた。
だが、仮説を立てても、調査は進展しなかった。樹に頼んで遊郭街で聞き込みをしたが、たいした手がかりも得られず、難航した。
これらのことが全て明らかにてきたのは、時津のおかげだ。
「場所や癖から父親のことは分かりました。けれど、どうして、子の性別を偽る必要があったのですか?」
大二がまだ納得していない様子で尋ねた。
「それについてはオクノさんから説明いただいたほうがいいと思います」
新伍の中で、こうだろと思う理由はある。おそらく、とても繊細で、込み入った事情だ。推測だけで語ることは憚られる。
子を守ろうとする母親の切迫した想い。それが、いかに強いのか、新伍はよく知っている。以前も同じような女性がいたから。
オクノは意を決したように、語り始めた。
「ほとんど五島さんの考えたとおりで合っています。韮崎さんは、かつては私の上得意客でした。よく通っていらして、とても気に入ってくださっていたと思います……大切にしてくださっていたとは言い難ですが」
「それは、やはり藤助さんが評判どおりの方だということですか?」
「韮崎さんは、感情の好悪が極端で、気に入らなければ暴力を奮う。女を物のように扱うーーーそう言われていて、どれも嘘ではありません。ですが、言葉にしてしまうと、少し違う気がいたします」
オクノは、自分の感覚を表す言葉を探しているように少し考えてから続けた。
「あの人の恐ろしさ、気味の悪さは、もっと違う。あの人は、根本的に人の気持ちが分からない人間です。遊女は皆、さまざまな事情を抱えています。それも、どれも辛く苦しいものばかり。でも、あの人は、そういう人の気持ちを慮ったり、同情するような感情を持ち合わせていないといいますか……この世をまるで遊戯のような感覚で捉えている気がするのです」
オクノによると、単純な暴力よりも、むしろ、そういった得体のしれない気味悪さが、皆に避けられる原因だったと言う。
「私は本当に気に入られていて、いつか身請けしてやると言われたこともあります。けれど、私はあの人と幸せに暮らすことをどうしても想像できませんでした」
彼女にとって藤助は、あくまで客であり、特別な愛情を抱いていたわけではない。むしろ、客でなければ関わりたくはないとさえ思っている様子だ。
「韮崎さんは、自身のことを大店の店主だと吹聴していました。自分は結婚していないから、もし私との間に息子ができたら、跡とりにすると言われた事もありました。大店かどうかは別として、店を経営しているというのは本当だと言われていましたから、子が出来たと分かったとき、私は恐怖に慄きました」
「子が出来たことを、藤助さんは知っていたのですか?」
「私は伝えていませんが、知っていたようです」
あの男は、私の子どもを楽しみにしている。もし男だったら、私を身請けするだろう。そうなったら、息子と私は一生、あの人のもとに囚われ、縛られる。それはオクノにとって恐怖でしかなかった。
「置屋の主人や遊女仲間の協力を得て、子は無事に産まれてきました。あの人の望んでいた通りに男児です」
「産まれた男の子は、どうしたのですか?」
「あの人には死産ということにして、同僚に預けました。手放したくはありませんでしたが、あんな人の元で育つより、ずっとマシです」
オクノが下唇を噛んだ。断腸の想いだったのだろう。
「韮崎さんは、その頃から忙しくなったようで、かつてより来る回数が減っていました。おかげで深く追求されることはなく、誤魔化す事ができました」
そして子を生んだ翌々年、オクノの年季が明けたという。
「予定より早く出ることができたのは、足繁く通ってくださった韮崎さんのおかげですから、複雑な心境ではありましたが……」
それでも、ともかくオクノと藤助の縁は正式に切れたのだ。
「その子は今どうしているのですか?」
「私より少し前に身請けにより遊郭を出た友人のもとで、元気にしています。身請けしてくださっ方がとてもよい方で、今はお二人の子として育っています。私を母とは知りません」
父親が藤助であるということも知らせていないようだ。オクノは自分の子を、韮崎藤助という人間と徹底的に関わらせないように育てることを選んだ。
「突然、貴女があちこちの家の前で『娘だ』と騒ぎを起こしたのは、藤助さんの目を誤魔化すためですか?」
「えぇ、そうです。銀座の、あのあたりには普段行かないのですが……たまたま通りかかったときに、運悪く韮崎さんと再会してしまったのです」
藤助は、新店舗の開店のために訪れていたのだろう。
「藤助さんは貴女に、お子さんのことを聞いたんですね?」
「死産と伝えていたのですが信じていなかったようです。姪がいるが、自分の息子がいるなら、やはり跡取りにしたいと言っていました。咄嗟のことに私の目が泳いだのに気づいたのでしょう。しつこく問われ、逃げだしました」
このまま嗅ぎ回られては、いつか彼に隠していた子の存在が知られる可能性がある。
それで編み出した苦肉の策が、あの騒動だった。
「目的は二つですね? 産んだ子は娘であったと強調すること、そして、その子を亡くしたせいで自分は気が狂ったのだと思わせること。だが、金をチラつかせて、万が一にも本当に子を譲られては困る。だから貴女が相手にした家は、金に困っていない大きなところばかりだった」
「五島さんは、本当に何でもお見通しなのね」
オクノの騒動は、たった一人を欺くためだけの盛大な芝居だったことを、彼女は観念したように認めた。
そして、藤助が亡くなった以上、その芝居は必要ないのだ。
「どうして、大二さんに本当のことを言わなかったのですか? 大二さんは、あなたのことを心から案じていました」
新伍の言葉に、大二も「そうだ。せめて、ひと言教えてくれれば……」と不満げに言い募った。だが、オクノは「いいえ」と、きっぱり首をふる。
「言えませんわ。だって、この人は、あまりにも誠実で、正直だもの」
彼女の反論に、新伍は素直に感嘆した。
「そういうことでしたか」
確かに、芝居だと大二が知れば、その安堵は態度や表情に出るだろう。万が一、藤助がこの家を訪ねて来でもした場合、大二の態度に嘘くささがあっては台無しだ。
「私が騒ぎを起こし、この人が乗り込んで行ってこそ、真実味が増すというものです。嘘だと分かっていたら、この人は、そんなことは出来ないでしょう? 優しい人だもの。知っていても、一緒に三文芝居を打ってくれたかもしれません。でも、知った上でそんなことに付き合わせしまったら、いざというときに、私のせいに出来ないじゃないですか」
「あぁ、だから貴女は、僕に頭を下げたんですね」
胡条の雇われ人である大二を巻き込んだ。だからこそ、何かあった時には、大二に責任に及ばないように、全てを自分が被るために、真実を知らせなかったのだ。いざというときに彼を守るために。
そして、今日がその時だと思い、大二と別れる覚悟で謝罪した。
「オクノさんは、大二さんのことを好いておられるのですね」
「な……?! ご、五島さん、何を……?」
慌てる大二とは対照的に、オクノは「ふふ」と、笑った。
ふいを突かれた質問に、思わず漏れた笑みだっただろう。しかし、その笑みは新伍の質問が正しかったことを実感させた。
「えぇ、そうですね。長く夜の街に身を置いていたものですから、こんなにも誠実な人に出会ったことがありませんわね」
いつも無骨な韋駄天の大二が、戸惑っている。これ以上、妙な心労を彼女にかけることはないだろう。
「オクノさん。大二さんのことですが、案ずるには及ばないかと。この騒動は幸い、大事に至る前に終わりました。大二さんが何か問題になっていることは何もありません」
実際には、時津がこの騒動を知っている。
だが、だからこそ、大二にとって悪いようにはしないだろう。
時津が最も大事にしているのは桜子だが、彼女に絡まなれば、彼は、それ以外の周りの人間も大切にしている。桜子の世話係のイツへの態度がそうだったように。
こうして、大二からの依頼は、予想外の成果を得て、幕を閉じたのだった。
次はまた韮崎邸に舞台が戻ります。




