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第八章 またここで

 書店で買った短編集を、彼女は何度も読み返しているらしい。表紙の角は白く擦れ、三つ目の物語のところだけ、紙が少しふくらんでいる。


「やっぱり、三つ目が好き」


「二つ目の方がいいです」


「暗いから嫌」


「三つ目も暗いですよ」


「最後に少しだけ明るい」


「少しだけですよ」


「それで充分」


 彼女は本を開き、好きだという一文を探したので、僕もページを覗き込む。肩が触れそうになり、同時に離れた。


「あなたがいると、本が読めないんです」


 彼女は本を閉じた。


「じゃあ帰る」


 立ち上がろうとする彼女へ、言葉が勝手に続いた。


「嫌だとは言ってません」


 彼女はゆっくりと座り直し、「面倒な人」と笑った。


 その笑い声を聞いているあいだ、僕は何者でもなかったし、誰かになる必要もなかった。


 十二月の初め、彼女は最終選考へ進んだ。


「怖い」


 絶対に有名になると言っていた彼女が、初めてそう口にした。


「落ちたら、あの人たちの言ったとおりになる」


「落ちても、あなたはあの人たちのものにはなりません」


「何それ」


「僕にも、よく分かりません。でも、明日うまくいかなくても、ここに来ればいいです」


「受かっても来ていい?」


「本は読めませんけど」


 彼女は笑った。


 最終選考の日、彼女は帰りに大学へ寄った。


 木々のあいだから現れたとき、息を切らしていた。舞台用の化粧が目元にわずかに残り、いつもの鞄とは別の黒い袋を抱えている。


「最後まで、できた」


 ベンチの前に立ったまま、彼女は言った。


「歌ですか」


「演技。三つ目の物語をやった」


 書店で僕が選んだ短編集だった。故郷へ戻った女が、誰もいない家の窓辺へ灯りを置く場面を、一人で演じたのだという。


「審査員に、どうしてその場面にしたのか聞かれた」


「何て答えたんですか」


「最後に少しだけ明るいから、って」


 僕が以前言った言葉だった。


「勝手に使いました」


「僕の言葉じゃありません。本に書いてあることです」


「そういうところ、相変わらずだね」


 彼女は笑って、ようやく左端へ座った。緊張が切れたのか、両手が小さく震えていた。


「受かったと思う?」


「審査員じゃないので」


「それだけ?」


「最後までできたなら、今日はそれでいいんじゃないですか」


 彼女はしばらく黙り、それから頷いた。


「結果が出たら、最初にここへ来る」


「有名になるんですよね」


「なるよ」


「じゃあ、そのときは名前を聞かないと」


「そっちも教えて」


 互いに名前を言いかけたとき、彼女のスマートフォンが鳴った。


 最初の着信を彼女は切ったが、すぐに同じ番号からかかってきた。画面を見つめたまま応答すると、表情が変わった。


「はい。娘です」


 勢いよく立ち上がり、黒い袋がベンチから落ちた。


「母が?」


 相手の言葉を最後まで聞かず、彼女は鞄をつかんだ。


「病院へ行かなきゃ」


「一緒に――」


 言い終える前に、首を振られた。


「大丈夫。結果が出たら、また来るから」


 大丈夫ではない人へ、大丈夫かと聞けなかった最初の日を思い出した。今度も、何を言えばいいか分からなかった。


「またここで」


「はい。またここで」


 彼女は一度も振り返らず、木々の向こうへ消えた。


 またここで、と僕たちは言った。


 その約束が果たされなくなることを、そのときの僕は知らなかった。


 翌日から、彼女は来なくなった。


 最初の金曜日、僕はいつもより長くベンチにいた。彼女は遅い時間に来ることが多かったから、暗くなっても帰る理由がなかった。


 本を閉じるたび、木々の向こうに人影が見える気がした。講義を終えた学生が二人通り、清掃員が落ち葉を集め、やがて旧図書館の窓が一つずつ暗くなった。


 彼女が返すと言っていたハンカチを思い出した。忘れているのだろう。あるいは、返すつもりがなくなったのかもしれない。どちらでもよかった。代わりのものはもう持っている。


 銀杏のしおりだけが、読みかけのページから細くのぞいていた。


 警備員に声をかけられ、ようやく立ち上がった。裏門は閉まりかけており、正門まで遠回りをした。帰りの電車では一度も本を開かなかった。


 翌週の月曜日、彼女のいない左端に、薄く水が溜まっていた。袖で拭いて座り、濡れた跡が乾くまで待った。


 火曜日には、彼女を知っているらしい学生が二人、廊下で話していた。最終審査に合格したらしい、家族に不幸があったらしい、もう寮に入ったらしい、大学は休むらしい。事実と憶測が同じ声で語られ、どれが本当なのか分からなかった。噂の形で知るたびに、本当の彼女が少しずつ遠くなる。


 声をかけて名前を尋ねることはできたのだが、彼女が「今度」と言ったことを、本人のいないところで終わらせたくなかった。


 十二月の終わり、初雪が降った。


 木製の座面にはうっすら雪が積もり、誰も座った跡がない。僕は手袋で右端だけを払い、そこへ座った。彼女がいた左端は、白いまま残した。


 どうして右へ座ったのか、自分でも分からなかった。僕の場所は左端だったはずなのに、いつの間にか、そちらは彼女が来たときのための席になっていた。


 本を開くと、しおりを作った銀杏の葉が冬のページにはさまれている。少し曲がった輪郭に指を添えた。


「またここで」


 口に出してみるが、その声は雪へと吸い込まれていった。


 春休みに入るまで、週に一度はベンチへ行った。新学期、時間割が変わっても同じだった。待っているつもりはない、と自分には言い続けた。ただ本を読む場所を変えなかっただけだ、と。


 けれど、木々のあいだから白い服が見えるたびに顔を上げた。


 その人が別人だと分かるまでの短い時間だけ、ページの続きを信じることができた。

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