↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/23

第二部 書きかけの本 第九章 来ない人

 三日目までは、レッスンが始まったのだと思っていた。一週間が過ぎると、遠くの教室へ通うことになったのかもしれないと考えた。二週間目には、次に会ったとき何を言うかを何通りも用意し、一か月後、そのどれも使うことはないのだろうと気づいた。


 それでもベンチへは通った。右端に座って本を開き、風が運んできた葉が左側に積もれば、読むのを中断して払い落とした。


 季節が変わる頃、彼女を知っているらしい学生が、休学したらしいと話しているのを聞いた。名前を尋ねることもできたが、ここでもまた足を止めなかった。ここまで聞かずにいた名前を、彼女のいない場所で手に入れることが、約束を破るように思えた。


 名前を聞けばよかった。オーディションの名前も、どこへ行くのかも聞けばよかった。言葉にしなかったことは、あとから答えのない問いになって戻ってくる。


 三年生の春、基礎実習で使う新しい白衣が配られた。袖を通して鏡の前に立つと、父のものより軽いはずの布が、肩に重くのしかかった。黒い眼鏡の奥にいるのは、医者になる途中の人間で、知っている顔をしているのに、僕には誰なのか分からなかった。


 帰宅すると、母はよく似合うと言い、父は兄の三年生の頃より細いな、と袖口を見た。心配する言葉の中にまで兄がいることを、その日だけは聞き流せなかった。


「休学したい」


 母は、冗談の続きを待つように笑った。父は箸を置き、何を言っている、と静かな声で尋ねた。うまく説明できなかった。医者が嫌いなわけではないし、学んだことが無駄だとも思っていない。ただ、白衣を着た自分を想像するたび、その中に父か兄の輪郭しか見つけられなかった。


 その夜、兄から電話があった。


「父さんから聞いた。話せるか」


「話したら、反対する?」


 兄は少し黙った。


「まず聞く」


 僕は本棚を見た。兄にもらった最初の本は、奥から二番目にあった。


「自分が医者になりたいのか、分からない」


「分からないまま、三年まで来たのか」


「分からないって言えるまで、三年かかった」


 電話の向こうの沈黙は長かったが、父の沈黙とは違っていた。兄はやがて、「そうか」とだけ言った。


 休学届は、一か月近く机の引き出しに入れたままだった。六月の初め、僕はそれを出す代わりに退学届を提出した。


 彼女は来なかった。少なくとも、僕が見ている日には。


 退学届を出した日の夕方、父は封筒を開かなかった。


 大学から戻った僕が食卓へ置くと、新聞の横へ押しやり、「今ならまだ間に合う」と言った。何に間に合うのかを聞いても答えない。復学なのか、医者なのか、父が用意した息子の形なのか。どれであっても、僕にはもう間に合わない気がしていた。


「出したよ」


「取り消せ」


「できない」


「できないんじゃない。やらないだけだ」


 声を荒らげたのは、僕の方が先だった。


「父さんには同じなんだろ。僕ができないことも、やらないことも」


 母が台所から出てきて、二人のあいだへ立った。父は椅子を引き、封筒を持って書斎へ入る。扉が閉じる直前、「この家にいるなら、せめて次を決めてからにしろ」と聞こえた。


 僕は部屋へ戻り、鞄へ服と本を詰めた。必要なものを選ぶつもりが、最初に入れたのは兄にもらった本で、次が銀杏のしおりだった。着替えは三日分しか入らなかった。


 母は玄関で、どこへ行くの、と何度も尋ねた。僕にも分からなかった。兄へ電話をかけたのは、最寄り駅のホームに立ってからだった。


「今夜だけ泊めて」


 事情を聞かず、兄は住所を送ってきた。


 病院から歩いて十分ほどの部屋は、物が少なかった。ダイニングテーブルには未開封の郵便が積まれ、冷蔵庫には水と調味料しか入っていない。


「夕飯は?」


「まだ」


「何か買ってくる」


「俺が聞いたんだけど」


 兄も食べていなかった。近くの店で弁当を二つ買い、向かい合って食べた。退学したと話しても、兄は驚かなかった。


「知ってたの」


「今日出すかどうかは知らなかったけど、いつか出すだろうとは思ってた」


「止めないんだ」


「止めてほしかったのか」


 箸を置いた。自分が何を期待していたのか、分からなくなった。


「父さんは止めた」


「父さんは、自分が正しいと信じてるからな」


「兄さんは信じてないの」


「お前が正しいかどうかは、まだ分からない」


 兄は弁当の蓋を閉じた。


「でも、間違えるなら自分で選んだ方がいい」


 その言葉は救いにも突き放しにも聞こえた。どちらなのか決められないまま、僕は兄のソファで眠った。


 今夜だけのつもりが、一週間居候することになった。


 家を出て三日目の水曜日、僕はベンチへ行かなかった。父との言い争いを何度も思い返し、兄の部屋から出ることさえできなかった。


 金曜日になってようやく大学へ行くと、ベンチは空いていた。座面に小さな葉が一枚ついていたので払い、右端へ座った。


 一週間は一か月になった。兄は合鍵を渡し、家賃の代わりに掃除と食事を頼んだ。僕が作った味噌汁を、薄いと言いながら毎回飲み干した。


 求人票を見ていると、兄は助言をしなかった。面接に落ちた日は、冷蔵庫に缶ビールが二本入っていた。採用の連絡が来た日は、いつもより早く帰り、駅前の中華料理店へ連れていった。


「医療機器の会社か」


「結局、医療から離れられなかった」


「離れなきゃいけないのか」


「父さんは、半端だと思うだろうね」


「父さんの感想で就職するのか」


 僕は首を振った。


 兄は餃子を一つ取り、「じゃあ、いいんじゃないか」と言った。


 就職する前の最後の平日、僕はもう一度、大学のベンチへ行った。雨上がりで、座面の端に水滴が残っている。


 右端へ座り、鞄から本を出した。会社員になれば、昼休みにここまで来ることはできない。そう考えても、別れを言う相手はいなかった。


 銀杏のしおりを抜き、新しいページへ挟む。

 

 本だけは、どこへでも持っていけた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。