第二部 書きかけの本 第九章 来ない人
三日目までは、レッスンが始まったのだと思っていた。一週間が過ぎると、遠くの教室へ通うことになったのかもしれないと考えた。二週間目には、次に会ったとき何を言うかを何通りも用意し、一か月後、そのどれも使うことはないのだろうと気づいた。
それでもベンチへは通った。右端に座って本を開き、風が運んできた葉が左側に積もれば、読むのを中断して払い落とした。
季節が変わる頃、彼女を知っているらしい学生が、休学したらしいと話しているのを聞いた。名前を尋ねることもできたが、ここでもまた足を止めなかった。ここまで聞かずにいた名前を、彼女のいない場所で手に入れることが、約束を破るように思えた。
名前を聞けばよかった。オーディションの名前も、どこへ行くのかも聞けばよかった。言葉にしなかったことは、あとから答えのない問いになって戻ってくる。
三年生の春、基礎実習で使う新しい白衣が配られた。袖を通して鏡の前に立つと、父のものより軽いはずの布が、肩に重くのしかかった。黒い眼鏡の奥にいるのは、医者になる途中の人間で、知っている顔をしているのに、僕には誰なのか分からなかった。
帰宅すると、母はよく似合うと言い、父は兄の三年生の頃より細いな、と袖口を見た。心配する言葉の中にまで兄がいることを、その日だけは聞き流せなかった。
「休学したい」
母は、冗談の続きを待つように笑った。父は箸を置き、何を言っている、と静かな声で尋ねた。うまく説明できなかった。医者が嫌いなわけではないし、学んだことが無駄だとも思っていない。ただ、白衣を着た自分を想像するたび、その中に父か兄の輪郭しか見つけられなかった。
その夜、兄から電話があった。
「父さんから聞いた。話せるか」
「話したら、反対する?」
兄は少し黙った。
「まず聞く」
僕は本棚を見た。兄にもらった最初の本は、奥から二番目にあった。
「自分が医者になりたいのか、分からない」
「分からないまま、三年まで来たのか」
「分からないって言えるまで、三年かかった」
電話の向こうの沈黙は長かったが、父の沈黙とは違っていた。兄はやがて、「そうか」とだけ言った。
休学届は、一か月近く机の引き出しに入れたままだった。六月の初め、僕はそれを出す代わりに退学届を提出した。
彼女は来なかった。少なくとも、僕が見ている日には。
退学届を出した日の夕方、父は封筒を開かなかった。
大学から戻った僕が食卓へ置くと、新聞の横へ押しやり、「今ならまだ間に合う」と言った。何に間に合うのかを聞いても答えない。復学なのか、医者なのか、父が用意した息子の形なのか。どれであっても、僕にはもう間に合わない気がしていた。
「出したよ」
「取り消せ」
「できない」
「できないんじゃない。やらないだけだ」
声を荒らげたのは、僕の方が先だった。
「父さんには同じなんだろ。僕ができないことも、やらないことも」
母が台所から出てきて、二人のあいだへ立った。父は椅子を引き、封筒を持って書斎へ入る。扉が閉じる直前、「この家にいるなら、せめて次を決めてからにしろ」と聞こえた。
僕は部屋へ戻り、鞄へ服と本を詰めた。必要なものを選ぶつもりが、最初に入れたのは兄にもらった本で、次が銀杏のしおりだった。着替えは三日分しか入らなかった。
母は玄関で、どこへ行くの、と何度も尋ねた。僕にも分からなかった。兄へ電話をかけたのは、最寄り駅のホームに立ってからだった。
「今夜だけ泊めて」
事情を聞かず、兄は住所を送ってきた。
病院から歩いて十分ほどの部屋は、物が少なかった。ダイニングテーブルには未開封の郵便が積まれ、冷蔵庫には水と調味料しか入っていない。
「夕飯は?」
「まだ」
「何か買ってくる」
「俺が聞いたんだけど」
兄も食べていなかった。近くの店で弁当を二つ買い、向かい合って食べた。退学したと話しても、兄は驚かなかった。
「知ってたの」
「今日出すかどうかは知らなかったけど、いつか出すだろうとは思ってた」
「止めないんだ」
「止めてほしかったのか」
箸を置いた。自分が何を期待していたのか、分からなくなった。
「父さんは止めた」
「父さんは、自分が正しいと信じてるからな」
「兄さんは信じてないの」
「お前が正しいかどうかは、まだ分からない」
兄は弁当の蓋を閉じた。
「でも、間違えるなら自分で選んだ方がいい」
その言葉は救いにも突き放しにも聞こえた。どちらなのか決められないまま、僕は兄のソファで眠った。
今夜だけのつもりが、一週間居候することになった。
家を出て三日目の水曜日、僕はベンチへ行かなかった。父との言い争いを何度も思い返し、兄の部屋から出ることさえできなかった。
金曜日になってようやく大学へ行くと、ベンチは空いていた。座面に小さな葉が一枚ついていたので払い、右端へ座った。
一週間は一か月になった。兄は合鍵を渡し、家賃の代わりに掃除と食事を頼んだ。僕が作った味噌汁を、薄いと言いながら毎回飲み干した。
求人票を見ていると、兄は助言をしなかった。面接に落ちた日は、冷蔵庫に缶ビールが二本入っていた。採用の連絡が来た日は、いつもより早く帰り、駅前の中華料理店へ連れていった。
「医療機器の会社か」
「結局、医療から離れられなかった」
「離れなきゃいけないのか」
「父さんは、半端だと思うだろうね」
「父さんの感想で就職するのか」
僕は首を振った。
兄は餃子を一つ取り、「じゃあ、いいんじゃないか」と言った。
就職する前の最後の平日、僕はもう一度、大学のベンチへ行った。雨上がりで、座面の端に水滴が残っている。
右端へ座り、鞄から本を出した。会社員になれば、昼休みにここまで来ることはできない。そう考えても、別れを言う相手はいなかった。
銀杏のしおりを抜き、新しいページへ挟む。
本だけは、どこへでも持っていけた。




