第十章 朝倉 紬
彼女を見つけたのは、二年後だった。
医療機器を扱う会社の食堂で昼食をとっていると、壁に掛かったテレビに、若いアイドルが六人並んだ。揃いの衣装を着た彼女たちを司会者が一人ずつ紹介し、三人目が笑った。
髪は短くなっていた。あのベンチにいた頃とは違う笑い方だったが、目を細める直前、唇の右端だけが少し先に上がった。
『朝倉紬さんです』
朝倉紬。
二年遅れて、僕はようやく彼女の名前を知った。
「この子、最近よく出るよな。好きなの?」
隣の席の同僚に聞かれ、「知ってる人に似ていて」と答えた。
似ているのではない。あれは、僕の知っている彼女だった。しかし、知り合いというには、名前を知るのが遅すぎた。
その夜、初めて彼女の名前を検索した。画面には、生年月日、出身地、血液型、好きな食べ物が整然と並び、その下に、まだ短い出演歴が続いている。ベンチで泣いていたことも、三つ目の物語だけを好きだと言ったことも、どこにも書かれていなかった。
記事をいくつか読み、画面を閉じた。名前を知らなかった頃の方が、彼女について多く知っていたような気がした。
一週間後、彼女が一人で出演する深夜番組があった。
司会者は、大学を休学して芸能界へ入ったことや、デビュー前に周囲から反対されたことを尋ねた。彼女は用意された答えを一つずつ返した。
「見返したい人は、いますか」
笑いを期待した質問だった。
大学のベンチで、私を笑った人たちが自分から名前を検索するくらい有名になる、と言った彼女を思い出す。
画面の中の紬は、少し考えた。
「いますよ。まだ見返せていないですけど」
客席が笑った。司会者も、負けず嫌いですね、と話をまとめた。
紬は笑っていたが、その指は膝の上で強く組まれていた。
翌日、発言の一部だけが記事になった。朝倉紬、大学時代の友人へ復讐宣言。見出しは実際の言葉より強く、知らない人たちが、性格が悪い、執念深いと書いた。
ベンチで泣いていた理由を知る人は、そこにはいないだろう。
僕は何度もコメント欄を閉じ、また開いた。反論を書こうとしたが、彼女を知っている根拠を説明できない。
――彼女は、そういう意味で言ったのではありません。
入力して、消した。
何もできないことが悔しく、便箋を一枚出した。所属事務所の宛先なら、公式サイトに載っている。
名前を聞かなかった人へ。
最初にそう書いた。
テレビで名前を知ったこと。約束の順番が逆になったこと。ベンチで言った言葉を覚えていること。あなたが有名になった姿を見ても、泣かなくなったかどうかは分からなかったこと。
最後に、元気で、と書こうとしてやめた。
元気ではない日に届いたら、命令に見えるかもしれない。
代わりに、三つ目の物語を、今も二つ目より好きですか、と書いた。
封筒へ入れ、翌朝、郵便ポストまで持っていった。
投函口の前に立つ。
この手紙が届けば、紬は誰が書いたか分かるだろう。懐かしいと思うかもしれない。なぜ今さら、と困るかもしれない。事務所の人が先に読み、大学時代のことを詳しく聞かれる可能性もある。むしろ、何も覚えていない可能性さえあると考えたら、なんだか笑えてきた。
送りたい理由と、送らない理由を数えるうち、通勤する人が何人も横を通った。
結局、鞄へ戻した。
会社の机の引き出しへ入れ、そのまま忘れた。
数年後、異動のため机を片づけたとき、封筒が出てきた。宛先の事務所は移転し、紬はもうアイドルを卒業していた。
開いて読み返す。
大学時代の自分より少し大人になったつもりでいたが、手紙の中では、相変わらず名前を聞けなかった青年のままだった。
捨てずに持ち帰り、兄にもらった最初の本へ挟んだ。
銀杏のしおりとは別のページに。
医学部で三年生まで過ごした時間は、面接では忍耐力になり、家に帰れば失敗になった。父はほとんど僕の仕事について聞かず、母は安定した職に就けただけでもよかったと言いながら、資格試験の案内を送ってきた。
会社で最初に任されたのは、病院へ納品する機器の説明書を確認する仕事だった。専門用語を一般の人にも分かる表現へ直し、図と実物の番号が一致しているかを調べる。医者になるために覚えた知識のうち、ごく小さな部分だけが役に立った。
同期は、どうして医学部を辞めたのかと遠慮なく聞いた。答え方を決めていなかった僕は、「向いていなかったので」と言った。
「もったいない」
ほとんどの人がそう返した。失った年数や学費を数えれば、その通りなのだろう。けれど、何を続けていればもったいなくなかったのかは、誰も教えてくれなかった。
入社して三か月ほど経った頃、取引先の病院で、看護師から機器の操作について質問を受けた。説明書に書かれている通り答えたが、彼女は困った顔をした。
「そうじゃなくて、夜勤で一人のときにアラームが鳴ったら、最初にどこを見ればいいんですか」
僕は答えられなかった。
会社へ戻り、担当者へ相談した。現場では説明書を最初から読む時間などない。アラームの種類ごとに、最初の三つの確認事項だけをまとめたカードを作り、機器の横へ置けないかと提案した。
上司は、責任の範囲が増えると難色を示した。技術部は表示が複雑になると言った。それでも、看護師が困った顔をした理由を説明し続けた。
一か月後、試作品ができた。病院へ持っていくと、彼女はカードを見て、「これなら新人にも渡せます」と言った。
たったそれだけのことだった。
誰かの命を直接救ったわけではない。父や兄のように病名を告げることも、手術室へ入ることもない。それでも、帰りの電車で窓に映った自分は、医学部の白衣を着たときより少しだけ自分の顔に見えた。
その夜、父へ話そうかと思った。しかし、電話番号を表示して、通話ボタンには触れずに画面を閉じた。代わりに兄へメッセージを送ると、しばらくして、よかったな、と返ってきた。
何がよかったのかは書かれていなかった。
二十六歳のとき、長く使っていた眼鏡を外した。
仕事で機器を覗き込むたびレンズが曇り、鼻あての跡が痛むようになったため、視力矯正の手術を受けた。朝起きて、枕元の眼鏡を探さなくても時計が見えた日は、自分の部屋へ別の人の目を借りて戻ってきたようだった。
兄は、眼鏡がない方が父さんに似ている、と言った。
「戻そうかな」
「もう遅い」
母は喜び、父は何も言わなかった。
僕自身も、鏡の中の顔に慣れるまで数か月かかった。大学時代の知人と街ですれ違っても、向こうが気づかないことがあった。
彼女ならどうだろう、と一度だけ考えた。
その頃にはもう、朝倉紬は街のどこにいても誰かに見つけられる人になっていた。
兄とは月に一度ほど食事をした。
「名前も知らなかった人が、アイドルになった」
初めて紬のことを話すと、兄は箸を止めた。
「それを知り合いと言うのか」
「言わないと思う」
「応援してるのか」
「たぶん」
「たぶんじゃ困るな」
母と同じ言い方だったので、僕たちは少し笑った。
それから、紬の出る番組を録画するようになった。彼女は僕の知らない歌を歌い、僕の知らない人たちに名前を呼ばれた。一度だけ、黄色い銀杏並木の前で撮った写真が雑誌に載った。そのページを閉じるまで、少し時間がかかった。
デビューして二年目の冬、紬の所属するグループに密着した番組が放送された。
カメラは早朝の寮へ入り、寝起きの顔や、食事を急いで済ませる様子を映した。メンバーは順番に自分の部屋を紹介し、紬の番になると、机の上に積まれた台本と読みかけの本が映った。
画面の端に見覚えのある表紙があった。
僕が書店で選び、彼女が買った短編集だった。新版が出て表紙が変わっていたが、題名は同じだった。
「朝倉さん、意外と読書家なんですね」
スタッフに言われ、紬は笑った。
「そう見えませんか」
「どんな本が好きですか」
彼女は一番上の本へ触れた。
「最後に、少しだけ明るくなる本」
それ以上、その本は映らなかった。
僕は録画を巻き戻し、同じ数秒をもう一度見た。表紙の角が擦れ、何度も開いた跡がある。大学を離れるとき、彼女が何を持っていったのか、僕は知らない。少なくともあの一冊は、寮まで一緒に行ったらしい。
翌日の昼、書店で同じ本を買った。自分の本棚にも旧版があるのに、新しい表紙を確かめたかった。
三つ目の物語を読み返す。
故郷を出た女が何年も帰れず、最後に、誰もいない家の窓へ灯りをともす話だった。昔の僕は二つ目の方が優れていると思っていた。文章が緻密で、結末にも無駄がない。三つ目は感傷的で、明るさの置き方が少し安易に見えた。
それでも読み終えると、しばらくページを閉じられなかった。
紬の言った通り、少しだけ明るかった。
グループの握手会が近くの会場で開かれた日、同僚に誘われた。彼は別のメンバーを応援していて、券が余ったという。
「会えばいいじゃないか。知り合いなんだろ」
知り合いではないと何度説明しても、彼は冗談だと思った。
会場の前までは行った。名前ごとに列が分かれ、紬の列が最も長かった。若い人だけでなく、小さな子どもを連れた親や、彼女と同じくらいの女性も並んでいる。
僕は券を同僚へ返した。
「行かないの?」
「名前を呼ばれるために並ぶのは、違う気がする」
「アイドルは、みんな名前を呼ぶよ」
それが仕事なのだろう。僕だけが知っている呼ばれ方など、一つもなかった。
会場を離れ、近くの喫茶店で本を読んだ。窓の外を、握手を終えた人たちが嬉しそうに通っていく。僕は銀杏のしおりを抜き、次のページへ移した。
会わなかったことを後悔するかもしれないと思った。実際、何度か後悔した。
それでも、列へ戻ることはなかった。
ずっと後になって、僕はもう一度その本を開くことになる。
病気になり、遺稿を書き始めた夜だった。開いたページから、銀杏のしおりとは別に、一通の封筒が滑り落ちた。紙は本の形に沿って曲がり、インクが少し薄くなっている。
送らなかった言葉も、言わなかった事実として人生に残る。
僕はその封筒を、原稿の最後へ入れた。
彼女が読むかどうかは、もう僕が決められなかった。




