第十一章 続編
紬はアイドルを卒業し、女優になった。最初は主人公の友人、その次は事件を隠す妹、さらに次は看護師を演じた。映画で初めて主演を務めた年、僕は三十になった。
会社では後輩ができ、父からは、いつまで今の仕事を続けるのかと聞かれた。母は結婚の話をするようになった。何者にもならなくていい場所は、もうどこにもないのだろう。
兄は病院で役職がついた。父は親戚の集まりで兄の話をし、僕の話になると「医療関係の仕事をしている」と言った。間違ってはいなかったが、僕は兄という一冊のあとに置かれた、出来の悪い続編のような気がしていた。
「俺は、お前に続かれた覚えはないけどな」
兄にそう話すと、彼は注文したコーヒーへ口をつけた。
「読者を選べないのは面倒だな」
「医者の言葉じゃない」
「お前の兄の言葉だ」
カップを置き、今の仕事は嫌いか、と尋ねる。嫌いではないと答えると、それなら充分じゃないか、と言った。
充分、という言葉が僕には少し眩しかった。
その年の正月、三年ぶりに実家で食事をした。
母は数日前から何度も電話をかけてきた。兄も来るから、父ももう怒っていないから、と頼まれて、断り続ける方が難しくなった。
玄関の靴箱も、廊下に掛かった家族写真も変わっていなかった。医学部へ入学した春に撮った写真では、僕は黒縁眼鏡をかけ、父と兄のあいだでぎこちなく笑っている。今の顔と比べると、別の家の息子のようだった。
母は料理を作りすぎていた。兄が肉を焼き、父はテレビの音を小さくした。四人が同じ食卓へ座ると、僕が家を出た日の言葉だけが、料理と料理の隙間に置かれているように感じた。
「仕事はどうだ」
父が初めて尋ねた。
「変わらないよ」
「そうか」
会話はそれで終わった。母が黒豆の作り方を話し、兄が病院の当直表に文句を言った。僕は聞き役に回り、箸を動かした。
食後、父の書斎へ呼ばれた。
机の上には、僕が退学届の写しを入れた封筒があった。捨てずに持っていたらしい。
「復学できる期間は、もう過ぎた」
「知ってる」
「後悔しているか」
考えた。退学したことより、父と話すのをやめたことを後悔した日はある。白衣を脱いだことより、この家を逃げるように出た自分を恥じたこともある。
「してない、と言ったら嘘になる。でも、戻りたいわけじゃない」
父は封筒を開き、紙を取り出した。僕の署名がある。
「私は、お前なら医者になれると思っていた」
「なれることと、なることは違うよ」
「それを、私は分けて考えなかった」
意外な言葉だった。父が自分の誤りに似たものを口にするのを、初めて聞いた。
「今も、もったいないとは思っている」
「うん」
「だが、お前が今の会社で何をしているのか、朔人から聞いた」
兄の名が出ても、その日は腹が立たなかった。
「新人の看護師向けに、機械のカードを作ったそうだな」
「ずいぶん前の話だよ」
「現場では、そういうものが助かる」
父は退学届を封筒へ戻した。
「私には、思いつかなかった」
褒められたのかどうか分からなかった。父は昔から、分かりにくい人だった。きっと僕も同じなのだろう。
書斎を出る前、机の端に置かれた文庫本が目に入った。僕が子どもの頃、父の棚から勝手に持ち出して叱られた本だった。
「まだ読むんだ」
「眠れない夜が増えた」
父は表紙を伏せた。
「年を取っただけだ」
廊下へ出ると、兄が壁にもたれていた。
「盗み聞き?」
「終わるのを待ってた」
「話したんだってね、仕事のこと」
「父さんが聞いたから答えた」
兄は僕の顔を確かめ、「殴られなかったな」と言った。
「もう三十になるんだけど」
「父さんの中では、十歳くらいで止まってる」
「兄さんは?」
「俺の中でも、十二歳くらいだな」
肩を小さく殴ると、兄は笑った。
帰り際、母が紙袋へ料理と果物を詰めた。重すぎると断っても減らさない。父は玄関まで来ず、居間から「また来い」と言った。
聞こえないふりをしようかと思ったが、「うん」と返した。
外へ出ると、夜の空気が冷たかった。兄と駅まで歩き、途中で別れた。街頭の下で一度振り返ると、実家の二階に灯りがついている。
家を出たときは、あの灯りを二度と見たくないと思った。それでも今は、消えないでほしいと思った。
その翌月、仕事で大きな失敗をした。新しい機器を導入する病院へ、古い版の説明資料を送ってしまった。安全に関わる箇所ではなかったが、病院側は説明会をやり直すことになり、担当者は準備のために休日を返上した。
上司と一緒に謝罪へ行くと、先方の責任者は怒鳴らず、机の上に二種類の資料を並べた。
「これを、新人が見分けられると思いますか」
表紙の隅にある版番号以外、ほとんど同じだった。
「思いません」
「では、なぜ送ったんです」
答えは、自分が確認しなかったから、でしかない。忙しかったことも、別の案件が重なっていたことも、説明にはなっても理由にはならなかった。
会社へ戻る電車で、上司は一言も話さなかった。机には訂正作業が積まれ、同僚が手伝うと言ってくれたが断った。自分の間違いを直すのに他人の時間を使うことが申し訳なかった。
夜十一時を過ぎ、上司が戻ってきた。
「一人で終わらせることが責任じゃない」
「でも、僕のミスです」
「だから、次に同じことが起きない仕組みを考えろ。今夜倒れるまでやることじゃない」
父に似た言い方だった。反発する力も残っていなかった。
終電に間に合わず、会社を出てから行く場所がなかった。スマートフォンで始発まで開いている店を探すと、近くの映画館で深夜上映がある。作品名の横に、朝倉紬主演、と書かれていた。
最後列の席に座る。客は十人もいなかった。
紬は、家族を事故で失った女性を演じていた。葬儀でも泣かず、空になった家へ戻り、食卓に残された一脚の椅子を見つめる。台詞のない時間が長く続き、客席の誰かが鼻をすすった。
その横顔に、大学のベンチで泣いていた少女が重なった。
あの頃の彼女なら、泣かない演技をどう考えただろう。涙を見せる方が簡単だと言ったかもしれない。あるいは、何も言わず、台本を何度も読み直しただろう。
映画の中で、彼女は椅子を片づけなかった。翌朝も、その次の日も、空席を残したまま食事をする。終盤、彼女は初めて友人を家へ招き、その椅子へ座るよう勧めた。
エンドロールが始まっても、僕はすぐに立てなかった。
空席は、いなくなった人のためだけにあるのではない。次に誰かが座るまで、空けておく場所でもある。
映画館を出ると、空が薄く白み始めていた。始発電車でいったん帰宅し、シャワーを浴びて着替えた。玄関で鞄を持ったとき、会社へ電話をかけ、休むと言うこともできた。
それでも電車に乗った。
午前中、同僚へ事情を話し、訂正作業を手伝ってほしいと頼んだ。午後には、版を色だけでなく記号でも区別する案と、発送前に二人で番号を読み上げる手順を作った。
彼女のおかげで会社へ行けた、とは考えなかった。映画は僕の事情を知らずに作られ、紬も、夜明けの客席に僕がいたことを知らない。
ただ、その日は休まずに済んだ。
そういう日は、そのあとにも何度かあった。何気なくつけたテレビで彼女が笑っていた日、電車の広告に新しい映画の顔を見つけた日、もう一ページだけ本を読もうと思えた夜。それぞれは小さく、人生を変えたと呼ぶには頼りなかった。
けれど人生は、大きな理由だけで続くわけではないのだと、僕はまだ言葉にしないまま知り始めていた。
画面の中の紬は、年を追うごとに笑わなくなった。取材には短く答え、共演者の冗談にも口元を動かすだけで、記事には近寄りがたい、冷たい、売れて変わったと書かれた。
僕には、それが鎧に見えた。けれど、それを確かめられるほど彼女の近くにいたことはなかった。
街で彼女とすれ違ったのは、初主演作が公開されて間もない頃、あの正月よりも前のことだ。
撮影を終えたらしい一団が歩道を塞いでいたので、僕は車道側へ身を避けた。その中心から黒いコートの女が歩いてきて、帽子の下から顔を上げる。目が合った。
僕は立ち止まったが、紬の視線は僕を通り抜けた。後ろにいたスタッフが「朝倉さん、こちらです」と呼ぶと、彼女は振り返り、人の輪の中へ戻っていった。
声をかけることはできた。大学のベンチにいた者です、と言えばよかった。名前も知らなかったのに、何年も覚えていました、と。
けれど、昔ほんの少し隣に座ったというだけで、今の彼女の人生へ入っていく権利があるとは思えなかった。
その夜、駅前の文具店でノートを買った。最初のページを開き、長いこと白紙を眺めたあと、二つの文を書いた。
人生は、少しだけ不親切にできている。
本のようにしおりを挟んで途中で閉じることもできないし、あとどれくらいページが残っているのかも教えてくれない。
銀杏のしおりを挟み、ノートを閉じた。




