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第十二章 残りのページ

 最初は疲れているだけだと思い、次は仕事のせいにした。早く寝るようにし、休みの日は一日中横になっていた。それでも疲れは抜けず、いつの間にか体重が減っていったが、忙しい時期が終われば戻るだろうと考えていた。


 三か月ぶりに会った兄は、僕が席に着くなり「痩せたな」と言った。


「父さんみたいなこと言うね」


「いつからだ」


 声が医者のものに変わっていた。


「何が」


「食欲がないのは」


 答えずにいると、兄は店員を呼び、頼んだばかりの料理を包んでもらった。


「明日、病院へ行け」


「大げさだよ」


「なら、俺が大げさだったと笑えばいい」


 その冗談を、僕は笑えなかった。


 検査は思ったより長く続いた。血液検査、脳の画像、目の奥を覗く検査。知らない言葉は少なかったが、医者になる途中まで覚えた知識が、聞きたくない意味ばかりを拾った。


 診断は、ミトコンドリア病というものだった。


 名前だけは知っていた。教科書の隅に小さく載っていた病名で、試験に出ないと分かってから一度も思い出さなかった。


 担当医の説明は静かだった。全身の細胞にあるミトコンドリアという小さな器官が、うまくエネルギーを作れなくなる病気であること。エネルギーを多く使う神経や筋肉から、症状が出やすいこと。すでに右目の瞼が少し落ちていること。視力に影響が出ることもあること。手術で取り除けるものではなく、進み方も、どの程度で進行が止まるかも人によって違うこと。


 父は質問を続け、母は鞄から手帳を出した。兄だけが黙っていた。


 説明が終わって両親が席を外したあと、僕は兄に尋ねた。


「医者としてじゃなくて、兄として答えて」


 兄は僕を見た。


「僕の人生には、あと何ページ残ってる?」


 目を逸らさなかった。答えもしなかった。


「そう」


 窓の外で、見えない鳥が鳴いた。僕は、銀杏のしおりを挟んだままのノートを思った。


 診察室を出ると、母が立ち上がった。結果を待つあいだに買ったらしい温かいお茶を、両手で握っている。


「先生は何て?」


 さっきまで同じ説明を聞いていたはずなのに、もう一度尋ねた。僕は「治療を始める」とだけ答えた。


 父は廊下の端で電話をしていた。知り合いの医師へ検査画像を見てもらう相談らしい。病名を告げられて十分も経たないうちに、次の手を探し始めている。


 兄が僕の横へ並んだ。


「今日は、どこへ帰る」


「自分の部屋」


「一人で?」


「一人で住んでるから」


「そういう話じゃない」


 分かっていた。けれど、心配される側の言葉をまだ知らなかった。


 病院を出ると、朝から降っていた雨がやんでいた。母は僕を実家へ連れて帰ろうとし、父は別の病院へ寄ると言った。三人がそれぞれ別の方向へ僕を助けようとするので、立っている場所がなくなる。


「今日は、一人にして」


 母が傷ついたような悲しい顔をした。それを見ても、あらためて言葉を言い換えることはできなかった。


 兄が両親へ何かを言い、二人を車へ向かわせた。そして駅まで僕についてきた。


「一人にしてって言ったんだけど」


「駅から一人になればいい」


 改札の前で、兄は財布から小さな紙を出した。診察券の裏に、自分の携帯番号と病院の直通番号が書いてある。


「登録してあるよ」


「紙でも持ってろ。電源が切れることもある」


 受け取ってポケットへ入れた。


 電車の窓に映る顔は、病院へ向かう朝と変わらなかった。病名を知っても、外側はすぐに変わらない。そのことが不思議で、少し腹立たしかった。


 部屋へ戻り、上着を脱いだ。机の上には、途中まで読んだ本と、スーパーのレシートと、洗っていないコーヒーカップがある。明日もあると思って置いたものばかりだった。


 冷蔵庫を開けると、賞味期限が三日後の牛乳があった。三日後なら飲める。来月の家賃も引き落とされる。会社の机には、週末までに直す資料が残っている。


 時間の話をされたのに、生活は、僕がいなくなる準備を何もしていなかった。


 机へ座り、銀杏のしおりを抜いた。挟まれていたページには、登場人物が旅の途中で病気になり、予定していた町へ行けなくなる場面がある。


 先週までは気にも留めなかった一節が、こちらを待っていたように見えた。


 大切な文は、大切な顔をして現れない。初めて読んだときには通り過ぎ、必要になった日に、前からそこにいたと気づく。


 僕はその一節をノートへ写した。続けて何かを書こうとしたが、病名しか浮かばなかったので、ページを閉じた。


 最初の治療の日、点滴室には二十ほどの椅子が並んでいた。窓際の席へ案内され、名前と生年月日を何度も確認される。薬の袋には、僕の名前が大きく印刷されていた。


 大学時代、彼女と名前を教え合わなかったことを思い出した。ここでは、名前のない人にはなれない。間違えないために呼ばれ、腕輪に書かれ、薬へ貼られる。


 隣の席には、灰色の帽子をかぶった女性がいた。年齢は母より少し上だろうか。彼女は点滴台へ小さな鈴をつけ、看護師が通るたびに鳴った。


「うるさかったら、ごめんなさいね」


「大丈夫です」


「孫がつけたの。迷子にならないようにって」


 治療が半分を過ぎた頃、吐き気が始まった。看護師が薬を追加し、背もたれを倒してくれた。女性は鞄から飴を一つ出した。


「食べられるようになったら」


 透明な包み紙の中に、琥珀色の飴がある。大学のベンチで半分もらったのど飴と同じ色だった。


「ありがとうございます」


 受け取ったが、その日は食べられなかった。家へ持ち帰り、ノートの横へ置いた。


 数日後、吐き気が治まった夜に口へ入れた。蜂蜜ではなく、生姜の味がした。


 女性の名前も、その後どうなったのかも知らない。次の治療では席が離れ、その次には姿を見なかった。ただ、あの日の飴は、僕が夕食を食べるきっかけになった。


 人の一日を次へ押すものは、たぶん、いつもその程度の大きさで現れる。


 治療が始まると、薬の名前と副作用が増え、会社を休む日が仕事へ行く日を上回った。やがて退職届を出した。母は食べられそうなものを毎日持ってきて、父は別の病院の資料を集めた。兄は勤務を終えたあと、何も言わず病室の椅子へ座った。


 母の持ってくるものは、日ごとに増えた。


 最初は果物とゼリーだけだった。僕が少し食べられたと知ると、翌日は三種類のゼリーを買い、次にはスープを保温容器へ入れてきた。口にできなかったものは持ち帰り、味や柔らかさを変えてまた持ってくる。


「今日は、茶碗蒸しにしたの」


 蓋を開けると、出汁の匂いが広がった。昔なら好きな匂いだった。今は胃の奥が縮み、顔を背けたくなる。


「冷めた方が食べやすいかもしれないから、置いておくわね」


 母は窓辺へ置き、タオルを畳み始めた。使っていないものまで洗濯し、引き出しの中を整える。


「食べないの?」


 十分おきに尋ねた。


「あとで」


「薬の前に少し入れた方がいいでしょう」


「分かってる」


「一口だけでも」


「分かってるって」


 声を強くすると、母の手が止まった。


「食べれば治るわけじゃないんだよ」


 言ってしまった言葉は、取り消せなかった。


 母はタオルを引き出しへ入れ、「そうね」と答えた。茶碗蒸しへ蓋をし、保温袋へ戻す。


「もう帰るの」


「食べないんでしょう」


「そういう意味じゃなくて」


「じゃあ、どういう意味?」


 彼女と同じ言い方だった。


 僕は答えられない。そばにはいてほしい。食べられない自分を見ないでほしい。心配してほしい。心配される姿を見たくない。


 母は帰った。


 夜、看護師が冷蔵庫から小さな容器を出した。母が帰る前に預けたらしい。中には、茶碗蒸しがスプーン一杯分だけ入っていた。


 蓋に付箋が貼ってある。


 ――一口だけ、という量にしました。食べなくても持って帰ります。


 大きな器を前にすると、食べられない量ばかりが見えた。一口分なら、できるかもしれない。


 冷たいまま食べた。


 翌日、母は何も聞かなかった。空の容器を鞄へ入れ、代わりにリンゴを一切れだけ置いた。


「昨日は、ごめん」


 僕が言うと、皮を剥く手を止めた。


「私も、たくさん持ってくれば、そのうちどれかがあなたを治してくれるような気がしてたの」


 母はリンゴをさらに薄く切った。向こうが透けるほどの一枚を差し出す。


「食べられそう?」


「あとで」


 今度は、そう、とだけ言った。


 しばらくして、母が自分の若い頃の話を始めた。


 大学へ行きたかったこと。祖父が、女の子は早く結婚すればいいと言ったこと。父と見合いをし、医者の妻になれば困らないと勧められたこと。


「嫌だったの?」


「分からなかった。嫌だと言ったら、そのあと何をしたいか答えなきゃいけないでしょう。私には、なかったの」


 母も、選ばなかったのではなく、分からないまま用意された席へ座った人だった。


「父さんと結婚したこと、後悔してる?」


「それとこれは別の話」


 父と同じ言い方をして、母は笑った。


「あなたに医者になってほしいと言ったのも、ほかに何を願えばいいか分からなかったから。父親とお兄ちゃんが医者なら、それが安全な道だと思った」


「僕が何をしたいか、聞かなかった」


「聞いても、あなたは分からないって言ったでしょう」


「それでも、聞いてほしかった」


 母は頷いた。


「ごめんなさい」


 病気になってから、家族は謝ることが増えた。時間が限られたから急いでいるようで、少し悲しかった。


「今、聞いて」


「何を?」


「何をしたいか」


 母はリンゴを切る手を置いた。


「あなたは、何をしたい?」


 窓辺のノートを見た。


「本を書きたい」


 声に出して答えたのは、それが初めてだった。


 母は、そう、と言った。


「じゃあ、書けるように、リンゴは一切れにしておくわね」


 帰ったあと、その一切れを食べた。


 食べたから病気が治ったわけではない。ただ、その日は一ページ多く書けた。


 父が持ってくる資料は、日に日に厚くなった。標準治療、治験、海外で行われている治療、まだ動物実験の段階にあるものまで、可能性と呼べるものをすべて集めようとしていた。


「この病院なら、次の試験に入れるかもしれない」


 父はベッド脇の机へ論文を広げた。英語の題名に蛍光ペンが引かれ、余白には細かな字で数字が書かれている。


「今の治療を始めたばかりだよ」


「効かなかった場合の話だ」


「効かなかったときに考える」


「そのときでは遅い」


 父にとって、僕の身体はすでに時間との競争になっていた。医者として間違っているとは思わない。だからこそ、息が詰まった。


「父さん」


「この施設では遺伝子検査も――」


「今日は、治療の話をしたくない」


 父の指が資料の上で止まる。


「話さなければ、病気が待ってくれるのか」


「待たないよ。でも、僕の一日は病気だけじゃない」


「今は治すことを優先しろ」


「治らなかったら、僕には何も残らないの?」


 病室が静かになった。隣のベッドのカーテンの向こうで、テレビの笑い声が流れている。


 父は資料を閉じ、鞄へ戻した。


「諦めるのか」


「違う」


「同じだ」


「父さんには、できないことと、やらないことが今も同じなんだね」


 大学を辞めた日の言葉が戻ってきた。父も気づいたはずだった。鞄を持って立ち上がり、何も言わず病室を出ていく。


 その夜、兄が来た。


「父さんから聞いた?」


「何も。母さんから電話が来た」


「同じようなものだね」


 兄は椅子へ座らず、窓辺に立った。外には、病室の灯りを映した黒いガラスしかない。


「父さんを止めてよ」


「どこまで?」


「治療の話をしないように」


「それは無理だ」


「兄さんも、医者だから?」


「息子を失うかもしれない父親だからだ」


 強い声ではなかった。それでも、僕は続きを言えなかった。


 兄は振り返る。


「父さんは、患者にはできることとできないことを説明できる。でも、お前のことになると、できないことを認められない」


「僕は、その相手をしなきゃいけないの」


「しなくていい。ただ、父さんも上手にできないんだと知っていてくれ」


 医者は、家族を救う方法を習わないのだろう。兄も父も、人の身体について僕よりずっと多くを知っているのに、僕の前では間違った言葉ばかり選ぶ。


「兄さんは、上手にできてる?」


「できてるように見えるか」


 見えなかった。兄の白衣のポケットには、同じ場所を何度も折った紙が入っている。先ほど父が広げた論文と同じものだと、端に見える題名で分かった。


「読んだんだ」


 兄は紙を隠さなかった。


「読んだ」


「止めないんだね」


「お前が望まない治療をさせるつもりはない。でも、可能性を探すことまでやめられない」


 父と兄は似ていないと思っていた。けれど二人とも、僕のいない場所で、同じ論文を読んで眠れない夜を過ごしている。


「僕にできること、何かある?」


 兄が初めて尋ねた。


 すぐには思いつかなかった。痛みをなくすことも、時間を増やすこともできない。そのとき、大学のベンチが浮かんだ。


「連れていってほしい場所がある」


 一時退院が許された日、兄の車で大学へ向かった。


 正門の近くには新しい建物が増え、学生証がなければ入れない場所もあった。兄が卒業生だと説明すると、守衛は父の名まで覚えており、懐かしそうに話しかけてきた。


 僕は帽子を深くかぶり、ゆっくり歩いた。兄は歩幅を合わせたが、支えようとはしなかった。頼めば腕を出せる距離だけを保っている。


 煉瓦の校舎は変わらなかった。蔦が以前より高い窓まで届き、雑木林の入口は少し狭くなっている。


「こんなところに何がある」


「もう少し」


 木々を抜けると、ベンチがあった。座面の板が一枚、新しいものへ替わっていた。


 僕は右端へ座った。兄は当然のように左へ腰を下ろしかけた。


「そこは空けて」


 動きを止める。


「誰か来るのか」


「来ないよ」


 兄は理由を聞かず、少し離れた切り株へ座った。


 鞄から原稿を出した。最初の数ページはすでに書いてある。木々の音を聞きながら読むと、記憶と違う場所がいくつも見つかった。白いブラウスはもっと薄かった気がする。最初の日、彼女の靴は濡れていただろうか。正確に書こうとするほど、思い出は形を変えた。


「何を書いてる」


「ここにいた人のこと」


「朝倉紬?」


 初めて兄の口からその名前が出た。


「覚えてたんだ」


「名前も知らなかった人がアイドルになった、と聞かされれば覚える」


 兄は木の根元へ視線を落とした。


「好きだったのか」


 答えようとすると、胸の奥で言葉が引っかかった。


「分からない」


「何年考えてるんだ」


「時間で分かるなら、もう分かってる」


 兄はそれ以上聞かなかった。


 風が吹き、原稿のページがめくれた。慌てて押さえると、銀杏のしおりが地面へ落ちる。兄が拾い、透明な板の中の葉を光へかざした。


「彼女が作ったのか」


「どうして分かるの」


「お前は作らない」


 返されたしおりを、今度は原稿の最初のページへ挟んだ。


 帰りの車で眠り、目を覚ますと実家の前だった。兄へ文句を言う前に、母が玄関から出てきた。その後ろに父がいる。


「今日は治療の話をしない」


 父は最初にそう言った。


 僕は車を降りた。


 夕食のあいだ、本当に誰も病気の話をしなかった。母は味付けを失敗した煮物の言い訳をし、兄は研修医の失敗談を話し、父は庭に来る野良猫へ勝手に名前をつけていた。


 何年も前からできたはずの食事だった。


 そのことが、嬉しく、悔しかった。


 その夜から、僕はノートの続きを書き始めた。


 季節が一つ変わった頃、三冊目のノートを見て、兄が言った。


「まだ書いてるのか」


「まだ生きてるから」


「疲れるなら休め」


「休んだら、治る?」


 兄は答えなかった。


「生きることを諦めるな」


「諦めるんじゃない。残った時間を、初めて自分で選びたいんだ」


 兄の手がベッド柵を握った。


「俺は、助けたい」


「知ってる」


「何もできてない」


「最初の本をくれた」


 翌日、兄はその本を持ってきた。表紙は擦れ、紙は黄色くなっていたが、眠れないときに読むといい、という兄の字だけは昔のまま残っていた。


「見つかったんだ」


「お前の本棚の、いちばん奥にあった」


 兄が窓辺の椅子へ座る。僕は新しいページを開いた。


 昔の僕は、自分ではない誰かになるために本を読んだ。今は、自分がここにいたことを残すために書いている。


 原稿の表紙に、仮の題を書いた。


『読みかけの本』


 書き始めて分かったのは、覚えていることの多くが、出来事ではなく手触りだということだった。


 彼女が最初に何色の鞄を持っていたかは思い出せない。それなのに、ハンカチを受け取った指の冷たさや、半分に割ったあんパンの断面が少し潰れていたことは、紙へ書くと昨日のように戻ってきた。


 記憶の順番も曖昧だった。のど飴を分けたのは、ハンカチより前だっただろうか。書店で雨に降られた日、彼女の左肩と僕の右肩のどちらが濡れていたのか。確かめる相手はいなかった。


 事実と違うかもしれない、と書く手が止まるたび、兄は「お前が覚えている通りに書けばいい」と言った。


「嘘になる」


「記録を残してるのか、小説を書いてるのか、どっちだ」


「分からない」


「それなら題名に合ってる」


 兄は原稿を読ませてもらえないくせに、題名だけは知っていた。


 母は、僕が書いていることを知ると、罫線の広いノートを何冊も買ってきた。使い切れないと言っても、机の引き出しへ入れる。


「残ったら、私が使うから」


 その言い方に助けられた。使い切れないことを前提にされるより、残ったものにも使い道があると言われる方がよかった。


 父は何も尋ねなかった。ある朝、病室へ来ると、机の上のノートを避けて果物を置き、帰り際に「字が小さすぎる」と言った。


「読んだの」


「開いていたページが見えただけだ」


「眼鏡、貸そうか」


「自分のがある」


 父が老眼鏡を持つようになったことを、そのとき初めて知った。


 体調のよい日は一日に十ページ書けた。悪い日は、一つの句点を打つ前に眠った。目を覚ますと、母がペンを握った手からそっと抜こうとしていることがあった。


「続き、書くから」


「紙は逃げないでしょう」


「時間は逃げる」


 母の指が止まった。口にしてから、言わなくてよかったと思った。


「じゃあ、時間に見つからないように、少し寝なさい」


 母はそう言い、毛布をかけた。


 夜中に目を覚ますと、机の上に開いたノートがある。書きかけの一文の最後へ、母が付箋を貼っていた。


 ――ここから。


 翌朝、その場所から続きを書いた。


 会社の元同僚が見舞いに来た日は、仕事の話ばかりした。僕が作った確認カードは今も使われ、新しい版では最初から機器に付属することになったという。


「君がいなくなってから、発送の読み合わせ、誰もさぼらなくなったよ」


「僕のミスのおかげ?」


「そう言うと腹が立つだろうけど」


 彼は笑って、会社のロゴが入ったボールペンを置いていった。高価なものではなく、会議室に何十本もある普通のペンだった。


 そのペンで、大学を辞めた日のことを書いた。


 自分では失敗だと思っていた時間が、誰かの手順の中に残っている。何が役に立ち、何が誰かの次の日へ渡るのかは、その場では分からない。


 人生の中に落ちているきっかけは、たいてい拾う価値のなさそうな顔をしている。のど飴、濡れた肩、古い本、送り間違えた資料。大切だったと気づくのは、いつも何ページもめくったあとだった。


 僕はその一節を原稿へ書き、翌日、すべて消した。


 説明しなくても、彼女が読めば分かる気がした。


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