第十三章 書かなかった言葉
大学の煉瓦の色を書いた。ベンチの左端と、白いブラウスと、泣いていた肩を書いた。ハンカチを差し出した日のことや、三つ目の物語だけが好きだと言った彼女の横顔も書いた。
名前を聞かなかったことを書くと、ペンが止まった。
聞けなかったのではない。少なくとも、あの頃は。名前のないままだから話せたことがあり、彼女が何者かになる前に、何者でもない彼女の隣へ座ることができた。
それを何と呼べばいいのか、僕は長いこと決めずにいた。言葉にすれば、あのベンチで過ごした時間より大きなものに見えてしまう気もしたし、言葉にしないまま終えるのは、あまりに小さく扱うことになる気もした。
消灯後、窓に映る自分の顔を見ながら、これまで避けていた言葉を一つだけ書いた。
書いてしまうと、それは驚くほど昔からそこにあった。
僕はその一文を、いちばん最初の章へ戻して書き足した。白いブラウスを見た日のすぐあとに。あの日から、ずっとそうだったことにするためではない。あの日から、ずっとそうだったからだ。
翌朝兄が来たとき、原稿を薄い茶色の封筒へ入れていた。
「終わったのか」
「分からない」
「読んでいいか」
「今は駄目」
「いつならいい」
「僕が決められなくなったら」
兄は封筒を受け取らず、机の上へ置いたままにした。僕は最後のページをもう一度開き、二行を足した。
僕が彼女の物語を読めるのは、ここまでだ。けれどきっと、彼女のページは僕の知らない場所でも続いていく。
銀杏のしおりを挟み、原稿を閉じた。
それから三日後、病棟のテレビに紬の顔が映った。画面の下には「交通事故」という文字が表示されていた。




