第三部 再読 第十四章 彼女の続き
紬は、夜明け前の道路を一人で歩いていたらしい。連日の撮影を終え、事務所の車を途中で降りたのだと報じられていた。横断歩道を渡る途中で、左折してきた車にはねられ、骨盤と右脚を骨折した。同じ映像の上を、重傷、緊急手術、命に別状はない、復帰は未定、という言葉が少しずつ形を変えながら通り過ぎた。
兄がテレビを消したあと、僕は封筒から原稿を取り出した。最後のページには、彼女の物語は僕の知らない場所でも続いていく、と三日前の自分が書いている。
ペンを持ったが、何も足せなかった。事故は僕の思い出ではなく、彼女の現実だった。勝手に続きを書くことはできなかった。
数週間後、病棟の廊下で紬の声を聞いた。
僕はもう、ほとんど何も見えなくなっていた。廊下の照明も、すれ違う人の輪郭も、白い靄の向こうにあるだけだった。看護師が車椅子を押す音、車輪がリノリウムの床を鳴らす音、それから、女性の声が二つ。
「朝倉さん、今日はこちらで結構ですので」
同じ建物のどこかに、彼女がいる。事故のニュースは知っていたが、この病院だとは知らなかった。世の中は、思っているより狭いところがある。
車輪の音が近づき、すれ違う。それだけだった。彼女が僕を見たのか、見なかったのかも分からない。声をかけることもできなかった。何を、どんな顔で言えばいいのか、僕にはもう、確かめる目がなかった。それに、名乗ったところで、向こうが僕を覚えている保証はどこにもない。
十年が過ぎていた。二十六のときに視力矯正の手術を受け、大学時代の黒縁眼鏡はもう必要なかったはずだった。それなのに今は、眼鏡をかけても何も変わらない。皮肉な話だと、誰かに聞かれたら答えただろう。
この身体では、僕だと気づかれることはもうない。声だけが、昔の名残だった。
それでよかったと思った。同時に、残念だとも思った。




