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第十五章 二度目の特等席

 病院の中庭には三つのベンチがあり、僕はいつも、木々に半分隠れた一つを選んだ。


 その日は先客がいた。


 鼻をすする音と、洟をすすり上げる合間の小さな震えで、誰かが泣いているのが分かった。おそらく紬なのだろう。


 十年前と同じだった。違うのは、今度は僕の方が、先に立ち去れる身体ではないことだった。


「隣、いいですか」


 紬は洟をすすり、少し間を置いてから「どうぞ」と答えた。


 僕がベンチの左側へ腰を下ろすろ、車椅子とのあいだには、人ひとり分の隙間ができた。鞄から、兄にもらった最初の本を取り出して表紙を開く。読むためではなかった。手の中に、いつもの重さがあることだけが、まだ自分でいられる証のような気がした。


「それ、面白いですか」


「まだ分かりません」


「ずいぶん古い本なのに」


「面白いかどうかとは別に、読む本もあるので」


 紬は僕の顔を確かめるように見た。


「私のこと、知ってますか」


「同じ病院の人だと思っています」


「それだけ?」


「それ以上、必要ですか」


 少しの沈黙のあと、「いいえ」と答え、彼女は帽子をかぶり直した。


 数メートル進んでから、車椅子を止めて振り返る。


「その本、最後まで読んだら、面白かったか教えてください」


「覚えていたら」


 彼女が去ったあと、答えようのない約束だと気づいた。




 次に会ったのは、中庭ではなく一階の自動販売機の前だった。


「ボタンが遠いんですけど、押してもらえますか」


 紬の声だった。近づくと、小銭を数える気配がする。


「見えないので、教えてください。何段目の、何番目ですか」


 紬が黙った。


「見えない、って」


「ほとんど」


「知らなかった」


「言ってなかったので」


彼女は数秒黙り、それから「じゃあ、私が言うから、あなたが押して」と言った。


「上から二段目。左から三つ目」


 指で数え、押した。落ちてきた缶を取り、車椅子の肘掛けへ置く。


「開けます」


「握力、まだ弱いから助かる」


 プルタブを起こして返すと、紬は一口飲んで顔をしかめた。


「甘い」


「言われた通りに押したんですけど」


「私が数え間違えたのかも」


 彼女は笑った。


「二人とも、うまくいかないね」


「そうですね」


「本の人、昔は眼鏡かけてたでしょう」


「どうして分かるんですか」


「なんとなく。似合いそうな話し方をする」


「昔は、かけていました」


「似合ってた?」


「自分では分かりません」


「写真ないの」


「見せません」


「まだ見せてとも言ってない」


 紬は甘いコーヒーをもう一口飲み、「でも、これはこれで飲める」と言った。


 ベンチへ着く頃には、コーヒーはぬるくなっていた。


「さっきの、眼鏡の話だけど」


 不意に紬が言った。


「眼鏡をかけた人を見ると、思い出しそうになる人がいる」


「知っている人ですか」


「分かりません」


 紬は甘いコーヒーの缶へ目を落とした。


「顔は見えないんです。木があって、本があって、黒い眼鏡だけが浮かぶ。夢で見たのか、本当に知っていたのかも分からない」


「嫌な人ですか」


「嫌だとは言ってません」


 口にしたあと、紬自身が驚いた顔をした。


「今の言い方も、どこかで聞いた気がする」


「よくある言葉です」


「あなた、すぐそうやって片づけるね」


 彼女は笑ったが、指先は缶の縁を何度もなぞっていた。その言葉は記憶の扉を開けなかった。ただ、扉がある場所だけを、内側から一度叩いた。


 僕はベンチへ座り、また本を開いた。


 別の日、中庭の植え込みの向こうでカメラの光が瞬いた。


 紬が先に気づいた。車椅子を動かそうとしたようだが、何かにぶつかる音がした。


「病棟へ戻りましょう」


「まっすぐ、少し先を右」


 僕はハンドルを握り、車輪を押した。紬の声だけを頼りに進む。


 植え込みの向こうから男が現れ、名前を呼んだ。


「朝倉さん、今のお気持ちだけでも」


 紬の声が硬くなった。


「そこの角、左」


 言われるまま曲がると、男の声が遠くなった。


「ここは病院です」


 僕が言うと、男はまだ近い声で答えた。「関係者の方ですか」


 答えなかった。関係者ではない。名前も知らない場所で隣に座るだけの人間だった。


 警備員の足音が近づいてきた。男の声が離れていく。


「もう大丈夫」


 紬が言って、車輪を止めるよう伝えた。


 エレベーターへ入ると、扉が閉まる音がした。紬の呼吸が、まだ少し速い。僕は少し離れた壁へ寄った。


「すみません」


「どうして、あなたが謝るの」


「一人でいたかったのに」


「一人だったら、逃げられなかった」


 扉が開いても、紬は動かなかった。乗ろうとした人が別のエレベーターへ移り、また扉が閉まる。


「事故の日も、追われてたんですか」


 尋ねてから、踏み込みすぎたと思った。


「違います」


 彼女は両手を重ね、震えを隠した。「あの日は、誰にも追われたくなくて、一人になったんです」


 それ以上は話さなかった。


 病室の階へ着くと、紬は車椅子を自分で動かした。廊下の角で一度だけ振り返る。


「さっき、関係者かって聞かれて、何も答えなかったでしょう」


「違うので」


「じゃあ、何?」


 答えを探したが、見つからなかった。


「同じ病院の人です」


 最初に言った言葉を繰り返すと、紬は寂しそうに笑った。


 その夜、原稿に一行を書き足した。


 兄がくれた厚紙の板を、ページの上へ重ねる。細い溝が一行分の幅で並んでいるだけの、ただの板だった。視力がまだ少し残っていた頃、次第に見えなくなる日が来ると言われて、兄が探してきたものだ。指先で溝をなぞり、そこからはみ出さないように書く。文字の形はもう自分では確かめられない。それでも、手はまだ覚えていた。


 名前のない関係には、名前がないから守れるものと、名前がないせいで守れないものがあった。


 紬は午後に来ることが多かった。毎日ではなく、来るたびに少し違う傷を抱えていた。昨日より曲がるようになった膝、昨日より上がらなかった足、手すりの中で立てた十秒。できなかったことについて話す日は多かったが、できるようになったことを自分から口にする日は少なかった。


 僕はいつも本を持っていった。


「本の人」


 ある日、紬がそう呼んだ。


「僕ですか」


「ほかにいないでしょう」


 紬は「面倒な人」と呟いた。


 どこかで聞いた言葉だった。


 彼女は僕の膝にあるノートを指した。「そのノートは?」


「書いてました」


「何を?」


「読みかけの本です」


「題名?」


「題名でもあるし、状態でもあります」


「読ませて」


「嫌です」


 即答すると、紬は眉を上げた。「完成したら?」


「考えます」


 やがて看護師が僕を探しに来て、名字を呼んだ。紬はその音を小さく繰り返したが、僕は聞こえないふりをした。


 雨の日は、中庭へ出られなかった。


 病棟の端に、談話室と呼ばれる小さな部屋があった。窓際に丸いテーブルが二つ、本棚には寄付された本が並んでいる。背表紙は日に焼け、上巻だけ、あるいは下巻だけの本も多かった。


 紬は窓のそばで雨を見ていた。車椅子の横には杖が立てかけてある。


「ここなら、見つからないと思って」


 僕に向けた言葉なのか、カメラのことなのか分からなかった。


 本棚を眺めると、あの短編集があった。書店で彼女へ選んだものと同じ新版で、表紙の角が白く擦れている。


 手に取ると、紬が振り返った。


「それ、知ってる」


「有名な本ですから」


「三つ目が好き」


 言い切ったあと、紬は本を見つめた。


「たぶん」


「たぶん?」


「この本、昔から持ってるの。でも、買った店も、最初に読んだ日も覚えてない。三つ目が好きだった、という感じだけが残ってる」


「内容は?」


「読めば分かる。でも、自分の記憶というより、何度も聞いた話みたい」


 僕は背表紙へ視線を落とした。「二つ目の方がいいと思います」


 彼女の表情が止まった。


 雨が窓を叩く。廊下を配膳車が通り、食器の触れ合う音が遠ざかっていった。


「前にも、そう言った人がいた」


「よくある感想です」


「そうかな」


「たぶん」


 紬は僕の顔を見続けた。眼鏡のない目元に、十年前の青年を探しているのかもしれない。僕は本を開き、目次を眺めるふりをした。


「読んで」


「自分で読めるでしょう」


「今日は頭が痛くて、文字を追いたくないの」


「僕も、文字は追えません」


 紬が黙った。「あ」と小さく言う。「ごめん、忘れてた」


「謝らなくていいです」


「じゃあ、無理しなくていい」


「無理はしていません」


 本を受け取り、開いた。ページの手触りだけで、だいたいどのあたりかは分かる。三つ目の物語なら、頭から終わりまで、たぶん一字一句、間違えずに言える。何度も読んだ本だった。


「最初から?」


「最後だけ」


「途中からだと分からないですよ」


「知ってるから大丈夫」


 僕は本を開いたまま、覚えている言葉を声にした。指はページの上を動かしていたが、文字を追っているわけではなかった。


 長く帰れなかった女が、空き家になった実家へ戻る場面。電気は止まり、家具には白い布がかかっている。女は一本の蝋燭へ火をつけ、窓辺へ置く。


 最後の一文を言い終えて本を閉じると、紬が言った。


「覚えてるの?」


 指が止まった。


「分かるんですか」


「ページ、めくってなかった。全部?」


「三つ目だけです」


 紬はしばらく黙っていた。


「本の人って、そういうところ、ちょっと変わってる」


「よく言われます」


「誰に」


「昔、知ってた人に」


 言ってしまってから、少し焦った。紬は気づかなかったのか、あるいは気づかないふりをしたのか、それ以上聞かなかった。


「もう一回聞いてもいい?」


「いいですよ」


「今度は、ちゃんと目、閉じて」


「閉じなくても、見えません」


「そうだった」


 紬は小さく笑った。


「すみません」


「どうして謝るの」


「今の、変な感じになったので」


「本のせいです」


「僕が読みました」


「じゃあ、半分ずつ」


「この話、昔は、帰ってこられた話だと思っていた気がする」


「違うんですか」


「今読むと、誰もいないって分かっていても灯りをつけた話に見える。帰る場所って、待ってる人がいなくても帰る場所なんだね」


 僕は大学のベンチを思った。彼女が姿を消した半年後に一度だけあの場所へ来たことも、そこで誰を待つべきだったのかさえ分からなかったことも、このときはまだ知らなかった。


「同じ本でも、読むときで変わります」


「本が?」


「読む人が」


 紬は窓の雨へ目を戻した。「声も変わる?」


「何の話ですか」


「昔、知ってた人の声に少し似てた」


 心臓が一度、強く打った。病気になってから、自分の鼓動を意識することが増えた。けれどその一度は、身体ではなく記憶に触れられた音だった。


「似た声の人は、たくさんいます」


「さっきから、よくあるとか、たくさんいるとか、そればっかり」


「そうですか」


「私が間違ってるって思わせたいみたい」


 図星だった。僕は本を棚へ戻した。


「間違っている方が、楽なこともあります」


「誰にとって?」


 答えられなかった。


 雨は夕方まで続いた。談話室を出るとき、紬は本を借りた。病院の名前が入った貸出票へ、スタッフに書いてもらった名字だけが残る。


「返すまで、いなくならないでくださいね」


 彼女は冗談のように言った。


 僕は笑えなかった。


「努力します」


 病室へ戻る途中、兄に会った。僕の顔を見て、具合が悪いのかと尋ねる。


「本を貸しただけ」


「誰に」


「借りたのは病院の本だから、僕が貸したわけじゃない」


「何の話だ」


 兄にはまだ、紬と話していることを伝えていなかった。


 その夜、熱が出た。返すまでいなくならないで、と言った彼女の声を思い出しながら、看護師が氷枕を替えるのを見ていた。


 彼女は自分の名前を一度も口にしなかったし、僕も呼ばなかった。名前のない場所が、病院にもできた。


 その夜、封筒へ入れたはずの原稿をもう一度取り出した。


 事故のことは書かなかった。それは彼女のページであり、僕が画面越しに見た言葉を並べても、彼女の痛みにはならない。ただ、病院の中庭で彼女と再会し、それでも名乗らなかった自分のことなら書ける気がした。


 終わりに置いた二行の手前へ、新しい紙を差し込んだ。閉じたはずの物語は、そこからまた、ゆっくりと動き始めた。


 兄に知られたのは、その三日後だった。


 中庭から戻る途中、エレベーターホールで紬と別れた。彼女が閉まりかけた扉の中から「明日は二時」と言い、僕が頷いたところを、廊下の向こうから兄が見ていた。


 病室へ入るなり、兄は椅子を引いた。


「朝倉紬だよな」


「声が大きい」


「お前が話してた人か」


「同じ病院の人だよ」


「十年前の、名前も知らなかった人かと聞いてる」


 否定しなかった。


 兄は両手で顔を覆い、深く息を吐いた。「こんなことがあるのか」


「あったみたいだね」


「向こうは知ってるのか」


「僕が知ってることは知らない」


「そうじゃない。お前が、大学の男だって」


 首を振る。


 兄は僕の机にある原稿を見た。「言わないのか」


「言わない」


「なぜ」


「彼女は事故に遭って、仕事も続けられるか分からない。今は昔の答え合わせをする時期じゃない」


「それを決めるのは、お前か」


 言葉が詰まった。


「お前は昔から、相手のためみたいな顔をして、自分が傷つかない方を選ぶ」


 兄にそう言われたのは初めてだった。


「傷つくのは僕じゃない」


「そうか? 名乗って、覚えていないと言われるのが怖いんじゃないのか」


「覚えてるよ。大学の話をした」


「なら、なおさらだ」


 声を抑えようとしても、息が上がった。兄は水を差し出したが、受け取らなかった。


「名乗ったら、彼女は僕が死ぬまでここへ来るかもしれない」


「来ないかもしれない」


「どちらでも、彼女に背負わせることになる」


「知らないまま死ぬことは、背負わせないのか」


 兄は机の原稿へ触れた。


「これを渡すつもりなんだろ」


「分からない」


「お前がいなくなったあとに読ませて、本人には何も言わせないつもりか」


 痛いところを正確に突くのは、医者の習性なのかもしれない。


「兄さんなら、どうする」


「分からない」


 初めて兄が同じ答えを使った。


 窓の外で、庭の木々が揺れている。明日の二時、紬はまたベンチへ来る。来なければ気になるし、来れば、言わないことが増える。


 兄は帰り際、扉の前で立ち止まった。


「お前のために名乗れとは言わない。ただ、彼女のために黙るという言い方はするな」


 一人になってから、原稿を開いた。


 僕だと気づかれなくてよかった、と書いた一文の下に線を引く。その続きへ、気づいてほしかった、と書いた。


 二つは矛盾している。どちらかを消せば、きれいな話になる。


 僕は両方を残した。


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