↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/21

第十六章 誰でもない人

「辞めようと思ってたんです」


 紬は歩行器に両手を置いたまま言った。声に、リハビリの疲れがまだ残っていた。


「仕事を?」


「事故の前から。昔は、誰かになりたかったんです。誰もが知っている人になれば、昔のことなんて平気になると思ってた」


「なりましたか」


「昔のことは平気になった。でも、知らない人まで私のことを知ってた」


 彼女は歩行器から手を離した。


「何を食べたか、誰といたか、笑わなかった理由。私より先に、みんなが決めるんです」


「今は、何になりたいんですか」


「誰でもない人に戻りたい」


 風が吹いた。「帽子、飛ばされそう」と紬が言った。


「それなら、ここではそうしていればいい」


 彼女はしばらく黙っていた。


「前にも、誰かに同じようなことを言われた気がする」


 考えるのをやめたように、紬はベンチの左側へ座った。


「本の人は、誰かになりたい?」


 以前なら、なりたくないと答えただろう。


「今は、自分でいたいです」


「今までは違ったの?」


「長いこと、誰かの人生の続きみたいに生きていました」


 紬はそれ以上聞かなかった。僕も話さなかった。



 二時に中庭へ行く約束をした日、僕は検査から戻れなかった。


 予定より時間がかかり、病室へ戻ったのは四時を過ぎてしまっていた。窓を開けて中庭の音に耳を澄ませても、ベンチの方からは何も聞こえなかった。


 看護師に尋ねると、車椅子の女性が一度訪ねてきたという。名前は言わず、「本の人はいますか」と聞いたらしい。


「何て答えたんですか」


「検査中ですって。伝言はないですよ」


 翌日、紬は来なかった。


 その次の日も、ベンチの左側は空いていた。僕は本を開き、ページをめくっては周囲をちらちらと見た。待っていることを認めてしまえば、時間が過ぎるのが遅く感じるような気がした。


 三日目、病室の扉がノックされた。


 紙袋の擦れる音とともに、紬が杖をついて入ってきた。看護師に部屋を聞いたらしい。


「約束を忘れたのかと思った」


「検査でした」


「知ってます。あとで聞いたから」


「じゃあ、どうして怒ってるんですか」


「待ってたから」


 答えに困った。謝ればいいのか、待ってくれたことを喜べばいいのか、その二つを同時に言う方法が分からない。


「すみません」


「それだけ?」


 大学で合格を告げた日の彼女と同じだった。


「待っていてくれて、ありがとうございます」


 紬は少しだけ機嫌を直したようだ。


「売店で買ってきた。卵のサンドイッチ。昼、まだでしょう」


「食欲がなくて」


「じゃあ半分」


 紬がサンドイッチを一つ取り、さらに半分に分けてくれた。大学の食堂であんパンを分けたときも、彼女は同じように、断る余地のない大きさにした。


 一口食べてみることにしたが、飲み込むのに時間がかかった。


「病気、何なんですか」


 紬が尋ねた。


「ミトコンドリア病です」


 初めて伝えた。彼女が息を止めたのが分かった。


「聞いたことないです」


「僕も、診断されるまで知りませんでした」


「治るんですか」


「治療しています」


「質問に答えてない」


「答えは、医者にも分かりません」


「どれくらい、ここにいるんですか」


「それも分かりません」


 紬の声が、少し高くなった。「分からないことばっかり」


「そうですね」


 泣くかと思った。けれど彼女は泣かなかった。


「じゃあ、明日も分からない?」


「明日は、たぶん中庭へ行けます」


「たぶんじゃ困る」


 母と同じ言葉を使い、紬は笑った。笑い声が、少し硬かった。


 その日から、彼女は僕の体調を尋ねなくなった。代わりに、明日は何時に行く、今日は十分だけ、雨なら談話室、と具体的に決めた。


 先の時間について不確定な要素が多い僕たちは、翌日の予定だけを作った。


 ある午後、紬は大きな紙袋を持ってきた。スタッフが事務所から運んだ手紙だという。事故の報道を見た人たちから届いたもので、励ましの言葉が書かれているようだ。


「読まないんですか」


「怖い」


「励ましの手紙でしょう」


「期待も入ってるから」


 早く元気になってください。復帰を待っています。また走る姿が見たいです。


 紬は封を開けずに、内容を知っているように言った。


「歩けるかも分からないのに、待ってるって言われると、戻らなきゃいけない気がする」


「待つ人は、戻ることを命令しているわけじゃないと思います」


「どうして分かるの」


「待ったことがあるので」


 少し間があった。


「戻ってきましたか」


「いいえ」


「それでも待った?」


「しばらくは」


 紬は手紙を一通取り出した。差出人は、中学生の女の子だった。


 学校へ行けない時期に紬のドラマを見ていたこと、登場人物が朝起きてカーテンを開ける場面を真似したこと、今は週に二日だけ保健室へ通っていることなどが書かれていた。


 復帰してほしい、とは一言も書かれていなかった。


 最後に、ありがとう、とだけあった。


「私、こんなことした覚えない」


「ドラマには出たんでしょう」


「仕事だから」


「その人がカーテンを開けたこととは、関係ないです」


「でも、私がいなくても、誰か別の人が演じてた」


「別の人だったら、その人はカーテンを開けなかったかもしれない」


 紬は長く黙った。


「そんな小さなことでいいのかな」


「小さいからいいんでしょう」


 言いながら、治療室でもらった生姜の飴を思い出していた。


 紙袋に何かを戻す音はしなかった。手紙を、まだ手元に置いているようだった。


 その日のリハビリで、彼女は初めて杖だけで十歩歩いた。


 ある午後、紬は中庭へ来るなり、折り畳んだ紙を膝へ置いた。事故のあと、眠れない夜が続くため、精神科の医師と話したのだという。


「昔のことまで聞かれた」


「事故と関係があるんですか」


「同じことが前にもなかったか、って」


 紬は少し声を落とした。


「大学二年の春からその年の冬まで。ところどころ記憶がない」


 僕は本を持つ手を止めた。


「全部思い出せないんじゃない。授業を受けたことも、家から大学へ通っていたことも覚えてる。試験の成績も残ってる。でも、その頃の自分が何を楽しいと思って何を嫌だと感じて、誰と話して、どこへ行ったのかを思い出そうとすると、ページを何枚かまとめて破られたみたいになる」


「いつからですか」


「母が亡くなった頃」


 がんが再発した母親は、入退院を繰り返していた。最終選考の日、紬が電話を預けているあいだに容体が急変した。病院へ着いたときには、もう話すことができなかった。


「母が死んだことは覚えてる。葬儀も。でも、最後にどんな声で話したのか、私は何を言ったのかが出てこない。母の病室だけじゃなくて、その前の何か月かも、島みたいに残っている場面と、何もない場所がある」


 同級生から送られた動画やメッセージ、母の病気、オーディション。どれが原因だったのかを一つに決めることはできないと、当時の医師は言った。頭の検査では説明できる異常がなく、薬や酒によるものでもなかった。


「解離性健忘、の可能性もあるんだって」


 病名を口にするとき、紬の声は、自分ではない人の診断書を読むように平らだった。


「記憶は戻ったんですか」


「少しだけ。戻ったと思ったあとで、家族から聞いた話を自分の記憶だと思い込んでいたこともあった。だから、今も確かなことと、想像したことを分けられない」


 紬は少し黙ってから、続けた。


「事故の直前、ベンチが見えたんです。煉瓦の壁と、木と、黒い眼鏡。本をめくる音もした。でも、そんな場所へ本当に行ったのか、昔読んだ物語なのか分からなかった」


 僕たちが過ごした時間は、彼女の中で、現実かどうかさえ決められないものになっていた。


「半年後に、一度だけ大学へ行った記録があります。休学の手続きで。付き添っていた人には、途中で勝手にいなくなって、戻ってきたら服に葉っぱがついていたと言われた」


「覚えていないんですか」


「木の匂いと、空いている席だけ。そこへ誰かが来る気がしていた。でも、誰を待てばいいのか分からなかった」


 六月のベンチ。僕が父と争い、兄の部屋にいた週だった。


 彼女は僕へ会いに戻ったのではない。忘れた身体が偶然そこへ辿り着き、理由のない空白の前へ座った。


 それでも、来ていた。


「これも、その頃から持ってるみたい」


 紬は鞄から、白地に紺の縁がついたハンカチを出した。何度も洗われ、縁の色は薄くなっている。


「誰のものか分からないのに、捨てられなかった。事故のあと、これを握っていたら眠れたんです」


 僕が差し出した日の折り目は、もうどこにもなかった。


「思い出したいですか」


「前は、思い出せば元に戻れると思ってました」


「今は?」


「起きたことを知りたい。でも、誰かに『あなたはこうだった』と言われて、その人の物語で穴を埋めるのも怖い」


 医師からも、無理に思い出そうとしないこと、戻った記憶が必ずしも正確とは限らないことを説明されたという。


「もし、その頃に大切な人がいたら?」


 尋ねた声が、自分のものではないように聞こえた。


 布を折り直すような、小さな音がした。


「その人にとっては、私は何も言わずに消えた人ですよね」


「忘れたことと、捨てたことは違います」


「どうして分かるの」


「違っていてほしいからです」


 そこで僕は「待っていた」と言えたのに。眼鏡をかけて本を読んでいたのは僕だと、事実だけを渡すこともできたのに。


 けれど彼女は今、自分の空白へ他人の答えを入れられることが怖いと言った。僕はその言葉を、黙る理由として受け取った。


 弱さは、ときどき相手のためでもあると、都合のいいように考えた。


 その夜、兄へすべてを話した。


「記憶がないなら、なおさら言えない」


「名乗ることと、思い出させることは同じじゃない」


 兄は椅子へ座り、僕の原稿を指で叩いた。


「お前が大学にいた人間だというのは事実だ。その先を自分の記憶にするか、他人から聞いた過去にするか、決めるのは彼女だ」


「また忘れられたらと思うと、怖い」


 口にしてから、それがいちばん奥にあった理由だと分かった。


 一度目は、彼女の意思ではなかった。分かっていても、僕の中では、待っても来なかった時間として残っている。


「彼女を守りたいんじゃない。もう一度、僕だけが覚えている人になるのが怖かった」


 兄は否定しなかった。


「怖いまま言えばいい」


 長い沈黙のあと、僕は頷いた。


「明日、名乗る」


「決めたのか」


「決めた」


「一つだけ約束して」


 兄が黙って、続きを待っているのが分かった。


「僕が言うまで、大学のことは話さないで」


「俺がか」


「兄さんが先に言ったら、僕の話じゃなくなる」


 兄はしばらく黙り、それから頷いた。


「破りたくなるだろうな」


「破らないで」


「約束する。ただし、お前が明日名乗ればの話だ」


 それから兄は、小さな封筒を机へ置いた。


「大学のベンチへ行った日の写真だ。お前が右端に座って、左側を空けて原稿を読んでる」


 いつ撮ったのか気づかなかった。


「盗撮だよ」


「家族だから許せ」


「許さない」


 写真を返そうとしたが、兄は受け取らなかった。


「明日、見せればいい。昔の眼鏡はないけど、お前だと分かる」


「帽子をかぶって、少し痩せてる。それくらいだ、変わったのは」


「言葉で言う」


「そうか」


 封筒を原稿の下へ入れた。


 翌日、紬は借りていた短編集を持ってきた。


「返します」


「病院の本です」


「あなたが読んでくれたから」


 本を受け取ると、ページのあいだに紙が挟まっている感触があった。貸出票だろう。


 今日話そうと思った言葉を、頭の中で並べてみる。


 大学のベンチで会っていました。眼鏡をかけて本を読んでいたのは僕です。あなたを待っていました。


 どれも説明のようで、彼女に渡すには固すぎた。


「どうしたの?」


 紬の声が近づいた。


「眼鏡をかけていた頃のことを、思い出していました」


「写真、見せて」


「どうしてですか」


「前に、あるって言ったでしょう」


 言っていない。写真は昨夜、兄が置いていったばかりだった。


 それでも、偶然がこちらを急かしているように思えた。


「病室にあります」


「じゃあ、取りに行きましょう」


 杖をつく音と一緒に、紬がゆっくり立ち上がる気配がした。僕もベンチから腰を上げる。


 その瞬間、腹部に鋭い痛みが走った。息を吸えず、頭の中が白くなる。手を伸ばした先にベンチがなく、膝から地面へ崩れた。


「誰か!」


 紬の声が庭に響いた。


 看護師が来るまで、彼女は僕の肩へ手を置いていた。大丈夫か、とは言わなかった。ただ、ここにいるよ、と何度も繰り返した。


 処置室で痛み止めを受け、病室へ戻った頃には夕方だった。写真の封筒は、原稿の下に置いたままだった。


 言葉にしようとした事実は、紙一枚の距離にある。それでも、その夜から熱が出た。感染症を避けるため面会が制限され、中庭へも行けなくなる。紬は何度か病室の前まで来たが、中へ入れなかった。


 看護師が、扉の外に紬が来ていると教えてくれた。声をかけられる距離ではなかったが、そこにいることは分かった。


 僕は手を上げた。窓の向こうで、何かが小さく動いた気配がした。


 ――ここにいます。


 そう伝えたつもりだった。


 熱が下がったのは四日後だった。五日目、紬は中庭にいなかった。リハビリ中だと聞き、ベンチで待った。


 今日こそは、と写真の封筒へ手を置いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。