第十六章 誰でもない人
「辞めようと思ってたんです」
紬は歩行器に両手を置いたまま言った。声に、リハビリの疲れがまだ残っていた。
「仕事を?」
「事故の前から。昔は、誰かになりたかったんです。誰もが知っている人になれば、昔のことなんて平気になると思ってた」
「なりましたか」
「昔のことは平気になった。でも、知らない人まで私のことを知ってた」
彼女は歩行器から手を離した。
「何を食べたか、誰といたか、笑わなかった理由。私より先に、みんなが決めるんです」
「今は、何になりたいんですか」
「誰でもない人に戻りたい」
風が吹いた。「帽子、飛ばされそう」と紬が言った。
「それなら、ここではそうしていればいい」
彼女はしばらく黙っていた。
「前にも、誰かに同じようなことを言われた気がする」
考えるのをやめたように、紬はベンチの左側へ座った。
「本の人は、誰かになりたい?」
以前なら、なりたくないと答えただろう。
「今は、自分でいたいです」
「今までは違ったの?」
「長いこと、誰かの人生の続きみたいに生きていました」
紬はそれ以上聞かなかった。僕も話さなかった。
二時に中庭へ行く約束をした日、僕は検査から戻れなかった。
予定より時間がかかり、病室へ戻ったのは四時を過ぎてしまっていた。窓を開けて中庭の音に耳を澄ませても、ベンチの方からは何も聞こえなかった。
看護師に尋ねると、車椅子の女性が一度訪ねてきたという。名前は言わず、「本の人はいますか」と聞いたらしい。
「何て答えたんですか」
「検査中ですって。伝言はないですよ」
翌日、紬は来なかった。
その次の日も、ベンチの左側は空いていた。僕は本を開き、ページをめくっては周囲をちらちらと見た。待っていることを認めてしまえば、時間が過ぎるのが遅く感じるような気がした。
三日目、病室の扉がノックされた。
紙袋の擦れる音とともに、紬が杖をついて入ってきた。看護師に部屋を聞いたらしい。
「約束を忘れたのかと思った」
「検査でした」
「知ってます。あとで聞いたから」
「じゃあ、どうして怒ってるんですか」
「待ってたから」
答えに困った。謝ればいいのか、待ってくれたことを喜べばいいのか、その二つを同時に言う方法が分からない。
「すみません」
「それだけ?」
大学で合格を告げた日の彼女と同じだった。
「待っていてくれて、ありがとうございます」
紬は少しだけ機嫌を直したようだ。
「売店で買ってきた。卵のサンドイッチ。昼、まだでしょう」
「食欲がなくて」
「じゃあ半分」
紬がサンドイッチを一つ取り、さらに半分に分けてくれた。大学の食堂であんパンを分けたときも、彼女は同じように、断る余地のない大きさにした。
一口食べてみることにしたが、飲み込むのに時間がかかった。
「病気、何なんですか」
紬が尋ねた。
「ミトコンドリア病です」
初めて伝えた。彼女が息を止めたのが分かった。
「聞いたことないです」
「僕も、診断されるまで知りませんでした」
「治るんですか」
「治療しています」
「質問に答えてない」
「答えは、医者にも分かりません」
「どれくらい、ここにいるんですか」
「それも分かりません」
紬の声が、少し高くなった。「分からないことばっかり」
「そうですね」
泣くかと思った。けれど彼女は泣かなかった。
「じゃあ、明日も分からない?」
「明日は、たぶん中庭へ行けます」
「たぶんじゃ困る」
母と同じ言葉を使い、紬は笑った。笑い声が、少し硬かった。
その日から、彼女は僕の体調を尋ねなくなった。代わりに、明日は何時に行く、今日は十分だけ、雨なら談話室、と具体的に決めた。
先の時間について不確定な要素が多い僕たちは、翌日の予定だけを作った。
ある午後、紬は大きな紙袋を持ってきた。スタッフが事務所から運んだ手紙だという。事故の報道を見た人たちから届いたもので、励ましの言葉が書かれているようだ。
「読まないんですか」
「怖い」
「励ましの手紙でしょう」
「期待も入ってるから」
早く元気になってください。復帰を待っています。また走る姿が見たいです。
紬は封を開けずに、内容を知っているように言った。
「歩けるかも分からないのに、待ってるって言われると、戻らなきゃいけない気がする」
「待つ人は、戻ることを命令しているわけじゃないと思います」
「どうして分かるの」
「待ったことがあるので」
少し間があった。
「戻ってきましたか」
「いいえ」
「それでも待った?」
「しばらくは」
紬は手紙を一通取り出した。差出人は、中学生の女の子だった。
学校へ行けない時期に紬のドラマを見ていたこと、登場人物が朝起きてカーテンを開ける場面を真似したこと、今は週に二日だけ保健室へ通っていることなどが書かれていた。
復帰してほしい、とは一言も書かれていなかった。
最後に、ありがとう、とだけあった。
「私、こんなことした覚えない」
「ドラマには出たんでしょう」
「仕事だから」
「その人がカーテンを開けたこととは、関係ないです」
「でも、私がいなくても、誰か別の人が演じてた」
「別の人だったら、その人はカーテンを開けなかったかもしれない」
紬は長く黙った。
「そんな小さなことでいいのかな」
「小さいからいいんでしょう」
言いながら、治療室でもらった生姜の飴を思い出していた。
紙袋に何かを戻す音はしなかった。手紙を、まだ手元に置いているようだった。
その日のリハビリで、彼女は初めて杖だけで十歩歩いた。
ある午後、紬は中庭へ来るなり、折り畳んだ紙を膝へ置いた。事故のあと、眠れない夜が続くため、精神科の医師と話したのだという。
「昔のことまで聞かれた」
「事故と関係があるんですか」
「同じことが前にもなかったか、って」
紬は少し声を落とした。
「大学二年の春からその年の冬まで。ところどころ記憶がない」
僕は本を持つ手を止めた。
「全部思い出せないんじゃない。授業を受けたことも、家から大学へ通っていたことも覚えてる。試験の成績も残ってる。でも、その頃の自分が何を楽しいと思って何を嫌だと感じて、誰と話して、どこへ行ったのかを思い出そうとすると、ページを何枚かまとめて破られたみたいになる」
「いつからですか」
「母が亡くなった頃」
がんが再発した母親は、入退院を繰り返していた。最終選考の日、紬が電話を預けているあいだに容体が急変した。病院へ着いたときには、もう話すことができなかった。
「母が死んだことは覚えてる。葬儀も。でも、最後にどんな声で話したのか、私は何を言ったのかが出てこない。母の病室だけじゃなくて、その前の何か月かも、島みたいに残っている場面と、何もない場所がある」
同級生から送られた動画やメッセージ、母の病気、オーディション。どれが原因だったのかを一つに決めることはできないと、当時の医師は言った。頭の検査では説明できる異常がなく、薬や酒によるものでもなかった。
「解離性健忘、の可能性もあるんだって」
病名を口にするとき、紬の声は、自分ではない人の診断書を読むように平らだった。
「記憶は戻ったんですか」
「少しだけ。戻ったと思ったあとで、家族から聞いた話を自分の記憶だと思い込んでいたこともあった。だから、今も確かなことと、想像したことを分けられない」
紬は少し黙ってから、続けた。
「事故の直前、ベンチが見えたんです。煉瓦の壁と、木と、黒い眼鏡。本をめくる音もした。でも、そんな場所へ本当に行ったのか、昔読んだ物語なのか分からなかった」
僕たちが過ごした時間は、彼女の中で、現実かどうかさえ決められないものになっていた。
「半年後に、一度だけ大学へ行った記録があります。休学の手続きで。付き添っていた人には、途中で勝手にいなくなって、戻ってきたら服に葉っぱがついていたと言われた」
「覚えていないんですか」
「木の匂いと、空いている席だけ。そこへ誰かが来る気がしていた。でも、誰を待てばいいのか分からなかった」
六月のベンチ。僕が父と争い、兄の部屋にいた週だった。
彼女は僕へ会いに戻ったのではない。忘れた身体が偶然そこへ辿り着き、理由のない空白の前へ座った。
それでも、来ていた。
「これも、その頃から持ってるみたい」
紬は鞄から、白地に紺の縁がついたハンカチを出した。何度も洗われ、縁の色は薄くなっている。
「誰のものか分からないのに、捨てられなかった。事故のあと、これを握っていたら眠れたんです」
僕が差し出した日の折り目は、もうどこにもなかった。
「思い出したいですか」
「前は、思い出せば元に戻れると思ってました」
「今は?」
「起きたことを知りたい。でも、誰かに『あなたはこうだった』と言われて、その人の物語で穴を埋めるのも怖い」
医師からも、無理に思い出そうとしないこと、戻った記憶が必ずしも正確とは限らないことを説明されたという。
「もし、その頃に大切な人がいたら?」
尋ねた声が、自分のものではないように聞こえた。
布を折り直すような、小さな音がした。
「その人にとっては、私は何も言わずに消えた人ですよね」
「忘れたことと、捨てたことは違います」
「どうして分かるの」
「違っていてほしいからです」
そこで僕は「待っていた」と言えたのに。眼鏡をかけて本を読んでいたのは僕だと、事実だけを渡すこともできたのに。
けれど彼女は今、自分の空白へ他人の答えを入れられることが怖いと言った。僕はその言葉を、黙る理由として受け取った。
弱さは、ときどき相手のためでもあると、都合のいいように考えた。
その夜、兄へすべてを話した。
「記憶がないなら、なおさら言えない」
「名乗ることと、思い出させることは同じじゃない」
兄は椅子へ座り、僕の原稿を指で叩いた。
「お前が大学にいた人間だというのは事実だ。その先を自分の記憶にするか、他人から聞いた過去にするか、決めるのは彼女だ」
「また忘れられたらと思うと、怖い」
口にしてから、それがいちばん奥にあった理由だと分かった。
一度目は、彼女の意思ではなかった。分かっていても、僕の中では、待っても来なかった時間として残っている。
「彼女を守りたいんじゃない。もう一度、僕だけが覚えている人になるのが怖かった」
兄は否定しなかった。
「怖いまま言えばいい」
長い沈黙のあと、僕は頷いた。
「明日、名乗る」
「決めたのか」
「決めた」
「一つだけ約束して」
兄が黙って、続きを待っているのが分かった。
「僕が言うまで、大学のことは話さないで」
「俺がか」
「兄さんが先に言ったら、僕の話じゃなくなる」
兄はしばらく黙り、それから頷いた。
「破りたくなるだろうな」
「破らないで」
「約束する。ただし、お前が明日名乗ればの話だ」
それから兄は、小さな封筒を机へ置いた。
「大学のベンチへ行った日の写真だ。お前が右端に座って、左側を空けて原稿を読んでる」
いつ撮ったのか気づかなかった。
「盗撮だよ」
「家族だから許せ」
「許さない」
写真を返そうとしたが、兄は受け取らなかった。
「明日、見せればいい。昔の眼鏡はないけど、お前だと分かる」
「帽子をかぶって、少し痩せてる。それくらいだ、変わったのは」
「言葉で言う」
「そうか」
封筒を原稿の下へ入れた。
翌日、紬は借りていた短編集を持ってきた。
「返します」
「病院の本です」
「あなたが読んでくれたから」
本を受け取ると、ページのあいだに紙が挟まっている感触があった。貸出票だろう。
今日話そうと思った言葉を、頭の中で並べてみる。
大学のベンチで会っていました。眼鏡をかけて本を読んでいたのは僕です。あなたを待っていました。
どれも説明のようで、彼女に渡すには固すぎた。
「どうしたの?」
紬の声が近づいた。
「眼鏡をかけていた頃のことを、思い出していました」
「写真、見せて」
「どうしてですか」
「前に、あるって言ったでしょう」
言っていない。写真は昨夜、兄が置いていったばかりだった。
それでも、偶然がこちらを急かしているように思えた。
「病室にあります」
「じゃあ、取りに行きましょう」
杖をつく音と一緒に、紬がゆっくり立ち上がる気配がした。僕もベンチから腰を上げる。
その瞬間、腹部に鋭い痛みが走った。息を吸えず、頭の中が白くなる。手を伸ばした先にベンチがなく、膝から地面へ崩れた。
「誰か!」
紬の声が庭に響いた。
看護師が来るまで、彼女は僕の肩へ手を置いていた。大丈夫か、とは言わなかった。ただ、ここにいるよ、と何度も繰り返した。
処置室で痛み止めを受け、病室へ戻った頃には夕方だった。写真の封筒は、原稿の下に置いたままだった。
言葉にしようとした事実は、紙一枚の距離にある。それでも、その夜から熱が出た。感染症を避けるため面会が制限され、中庭へも行けなくなる。紬は何度か病室の前まで来たが、中へ入れなかった。
看護師が、扉の外に紬が来ていると教えてくれた。声をかけられる距離ではなかったが、そこにいることは分かった。
僕は手を上げた。窓の向こうで、何かが小さく動いた気配がした。
――ここにいます。
そう伝えたつもりだった。
熱が下がったのは四日後だった。五日目、紬は中庭にいなかった。リハビリ中だと聞き、ベンチで待った。
今日こそは、と写真の封筒へ手を置いた。




