第十七章 またここで
紬が杖で歩くようになった頃、僕は点滴台を押すようになった。彼女が一人で中庭へ来られるようになるのと入れ替わるように、僕は一人では来られなくなった。
「今日は遅かったね」
看護師に付き添われて庭へ出ると、紬の声がベンチの左側からした。いつもの場所だろう。
「待ちましたか」
「少しだけ」
ゆっくり腰を下ろし、息が整うまで二人とも黙っていた。
鞄の中には、写真を入れた封筒があった。
「前に、眼鏡の写真を見たいと言いましたよね」
紬は少し考えてから、「言った」と答えた。
封筒を出しかけたとき、彼女のスマートフォンが鳴った。電話に出た紬の声が、ゆっくり変わっていった。
「土曜日、ですか」
何度か同じ質問をし、最後に分かりましたと答えた。
「何かありました?」
「転院が決まった。来週だと思ってたのに、空きが出たから、土曜日の朝になったって」
写真を封筒へ戻した。
「早い方が、リハビリにはいいんでしょう」
「そうだけど」
紬は少し間を置いた。「ここを出たら、もう本当に戻るか辞めるか決めなきゃいけない気がする」
「決めなくても、リハビリはできます」
「みんな、待ってるから」
「待っている人は、答えを急がせているわけじゃない」
以前、手紙を読んだ日に言ったことを繰り返した。
「あなたも、待ってくれる?」
「何をですか」
「私が決めるまで」
写真の中の僕は、十年前から彼女を待っている。そう言えばよかった。
「待ちます」
紬は笑った。「名前も知らないのに?」
「名前と待つことは、関係ありません」
「やっぱり、前に会ったことない?」
まっすぐ尋ねられた。
「記憶が戻らなくても、知りたいの」
紬は続けた。
「黒い眼鏡の人が本当にいたなら、その人が誰だったのかだけでも」
今度こそ答えようとした。唇を開いたところで、遠くからスタッフが紬を呼んだ。転院の説明を今日のうちに受けることになったらしい。
「すぐ行きます」
返事をした紬が、立ち上がろうとする気配のあと、また止まった。
「写真は?」
「次にします」
「次って、いつ?」
「金曜日」
紬は少し迷ってから、「分かった」と言った。
「完成したら、読ませて」
おそらく、僕の膝の上にあるノートのことだろう。
「まだ読みかけです」
「ずっとそう言ってる」
「読み終わらない本もあります」
「書いてる人が諦めたら駄目でしょう」
「諦めてません」
「じゃあ、約束」
紬の手が伸びて、小指だけが僕の指に触れた。子どもみたいですよ、と言うと、約束を守れない大人が多いからこれが残ったんじゃない、と返された。
指を絡める。彼女の手は温かかった。
「金曜日」
「はい。金曜日に、写真を持ってきます」
昔も、金曜日は遅い時間に現れることが多かった。
「じゃあ、またここで」
「今度は、守れるといいですね」
紬が不思議そうな声を出したが、僕は説明しなかった。
金曜日、僕は中庭へ行けなかった。朝から熱があり、痛み止めの量が増えた。昼を過ぎ、窓の外の光が移っていくあいだ、ベンチの左側に座って待つ人のことを考えていた。
看護師が、誰か来ていると言った。返事をするより先に、紬が病室へ入ってくる。杖の音と一緒に、付き添ったスタッフや看護師へ向けて何度も謝る声がした。
「勝手にごめんなさい」
首を振る。
「待ってたの」
「すみません」
「謝らないで」
彼女はベッド脇の椅子へ座った。僕の手元には、朝から同じページを開いたままの本があった。
「少し休んだ方がいいよ」
目を閉じる。彼女がいる。窓の外で葉が鳴り、大学のベンチへ戻ったような気がした。
「あなたがいると……本が読めないんです」
息を吸う音が聞こえた。
長い沈黙のあと、紬が言った。
「嫌だとは、言ってません」
声が、少し濡れていた。
「どうして……」
紬が椅子から立ち上がる。
「あなた、もしかして――」
声の続きは、聞こえなかった。




